二つの後光
その夜|法水《のりみず》に三つの方面から情報が集まった。一つは法医学教室で――創傷の成因では法水の推定が悉く裏書され、絶命時刻も七時半から九時迄と云うのに変りない事。次は熊城で――朔郎が失ったと云うもう一本の鏨が発見され、その個所が、久八が蹲んでいたと云う場所の直前五|米《メートル》の池中だったと云う事。そして最後に、法水が月光の光背から採取した黒い煤様のものが、略々円形をなした鉄粉と松煙であると云う事――それは、鑑識課に依って明らかにされたのであった。所が、翌朝熊城は力のない顔をして法水を訪れた。
「いま朔郎を放免した所なんだよ。彼奴に不在証明《アリバイ》が現われたんだ。朔郎の室の垣向うが、久八の家の台所になっているだろう。八時半頃其処で立ち働いていた久八の孫娘が、朔郎が時計を直している音を聴いたと云うのだ。最初に八時を打たせて、それから半を鳴らせたので、自分の家の時計を見ると、恰度八時三十二分だったと云う。そこで、朔郎を訊して見ると、彼奴《あいつ》は迂闊《うっかり》していたと云って、躍り上った始末だ。勿論些細な点に至るまで、ピッタリ符合しているんだ。法水君、昨日朔郎の室の時計が二分|遅《おく》んでいたのを憶えているだろう。そして、あの様に重い沈んだ音を出す時計と云うのが、寺には一つもないのだからね」
然し、法水のどんより充血した眼を見ると、夜を徹した思索が如何に凄烈を極めていたか――想像されるのだが、そうして熊城の話を聴き終ると、その眼が俄かに爛々たる光を帯びて来た。
「そうかい。すると、遂々劫楽寺事件の終篇を書ける訳だな。実は、朔郎に不在証明《アリバイ》が出るのを待っていたのだよ。ああ、それを聴いたら急に眠くなって来た。済まないが熊城君、今日は此れで帰ってくれ給え」
その翌日だった。法水は開演を数日後に控えている、鰕十郎座の舞台裏に姿を現わした。午前中の奈落は人影も疎らで厨川朔郎は白い画室衣を着て、余念なく絵筆を動かしている。その肩口をポンと叩いて、
「やあ、お芽出度う。時に厨川君、君は昨日柱時計を修繕したのかい?」
「何んです? 僕には一向に呑み込めませんがね」朔郎は怪訝な面持で云った。
「でも、あの日から君の時計の時鳴装置が、どんな時刻にも、一つしか打たなくなった筈だがね。それが、今日君の留守中行ってみると、何時の間にか普通の状態に戻っているんだ。しかし、君は恐らく口を噤んでしまうだろうから、僕が代って云う事にしよう」と最初法水は、極めて平静な調子で云い出したのであったが、それにつれて、朔郎の唇に現われた痙攣が次第に度を昂めて行った。
「それには、最初準備行為が必要だったのだよ。君は自分の室の時計に綿様のものを支《か》って、時報を鳴らなくした筈だったね。そして、七時前に室を出て、裏木戸から薬師堂へ行ったのだが、それ以前に留守の室の時計と君の手に代るものを、柳江の書斎に作って置いたのだ。所で、君の偽造不在証明を分解しよう。まず柳江の書斎にある柱時計の長針と短針とに、安全剃刀の刃を一定の位置に貼り付けて置いたのだ。それから、時計の右手にある釘に糸を結び付けて、それを斜めに数字盤の円芯の上から、八時三十分以後に刃の合する点を通して、末端を自分の室から携えて行った携帯蓄音機の回転軸に縛り付けたのだ。蓄音機は前以って、扇形に張ってある蜘蛛糸の下へ、適宜な位置で据えてあったのだが、それにも細工がある。君は確か、速度を最緩にして、恰度二廻りで止まる程度に弾条《ゼンマイ》をかけて置いたろう。それから、送音管を外して、それを倒《さか》さまに中央の回転軸に縛り付ける。すると、発音器《サウンドボックス》が俯向くから恰度卍の一本と同じ形になるのだが、それが済むと、愈停止器を動かして回転を始めさせたのだ。勿論それだけでは、糸が盤の回転を許さないのだが、そのうち八時三十分を少し過ぎると、両針に付けられた剃刀の刃が合うから、糸がプツリと切断される。そうして、回転が始まると、発音器《サウンドボックス》の針受が上の蜘蛛糸を弾いて、あの時計に似た沈んだ音響を立てたのだよ。つまり、最初の回転で八つ[#「八つ」は底本では「六つ」]、二回目で一つ――それが三十分の報時に当ると云う訳だが、その二回で弾条《ゼンマイ》の命脈が尽きてしまったのだ」
「どうかしてますね貴方は※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」朔郎は突然引っ痙れた声で笑った。「あんな絹紐から、どうしてそんな音が出ましょう?」
「成程、十本の中で両端の二本宛は単純な絹紐だよ。所が、中の八本は本物の小道具なんだ。土蜘蛛の糸にはもう二十年此の方、電気用の可熔線《フューズ》を芯にして使っている。しかも、その中の一本には極く太目のものを君は芯にしているんだ。だから、最初八つ打ったのだが、七本
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