後光殺人事件
小栗虫太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)刑事弁護士である法水麟太郎《のりみずりんたろう》は

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)約半|糎《センチ》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符疑問符、1−8−78]
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  一、合掌する屍体

 前捜査局長で目下一流の刑事弁護士である法水麟太郎《のりみずりんたろう》は、招かれた精霊の去る日に、新しい精霊が何故去ったか――を突き究めねばならなかった。と云うのは、七月十六日の朝、普賢山劫楽寺の住職――と云うよりも、絵筆を捨てた堅山画伯と呼ぶ方が著名《ポピュラー》であろうが――その鴻巣胎龍《こうのすたいりゅう》氏が奇怪な変死を遂げたと云う旨を、支倉《はぜくら》検事が電話で伝えたからである。然し、劫楽寺は彼にとって全然未知の場所ではない。法水の友人で、胎龍と並んで木賊《とくさ》派の双璧と唱われた雫石《しずくいし》喬村の家が、劫楽寺と恰度垣一重の隣にあって、二階から二つの大池のある風景が眼下に見える。それには、造園技巧がないだけに、却ってもの鄙びた雅致があった。
 小石川清水谷の坂を下ると、左手に樫や榛《はしばみ》の大樹が欝蒼と繁茂している――その高台が劫楽寺だ。周囲は桜堤と丈余の建仁寺垣に囲まれていて、本堂の裏手には、この寺の名を高からしめている薬師堂がある。胎龍の屍体が発見されたのは、薬師堂の背景をなす杉林に囲まれた、荒廃した堂宇の中であった。
 三尺四方もある大きな敷石が、本堂の横手から始まっていて、薬師堂を卍形に曲り、現場に迄達している。堂は四坪程の広さで、玄白堂と云う篆額《てんがく》が掛っているが、堂とは名のみのこと、内部《なか》には板敷もなく、入口にもお定まりの狐格子さえない。そして、残りの三方は分厚な六分板で張り詰められ、それを、二つの大池をつなぐ池溝が、馬蹄形になって取り囲んでいる。更に堂の周囲を説明すると、池溝は右手の池の堰から始まっていて、それが、堂の後方をすぎて馬蹄形の左辺にかかる辺り迄は、両岸が擬山岩の土堤になっている。樹木は堂の周囲にはないが、前方に差し交した杉の大枝が陽を遮っているので、早朝ホンの一刻しか陽が射さず、周囲は苔と湿気とで、深山のような土の匂いがするのだった。
 細かい砂礫を敷き詰めた堂の内部には、蜘蛛の巣と煤が鐘乳石のように垂れ下っていて、奥の暗がりの中に色泥の剥げた伎芸天女の等身像が、それも白い顔だけが、無気味な生々しさで浮き出していた。それに、石垣にあるような大石が、天人像近くに一つ転がっている所は、恰度南北物のト書とでも云った所で、それが何んとも云われぬ鬼気なのであった。
 法水の顔を見ると、支倉《はぜくら》検事は親し気に目礼したが、その背後から例の野生的な声を張り上げて、捜査局長の熊城《くましろ》卓吉が、その脂切った短躯をノッシノッシ乗り出して来た。
「いいかね法水君、これが発見当時その儘の状況なんだぜ。それが判ると、僕が態々《わざわざ》君をお招きした理由に合点が往くだろう」
 法水は努めて冷静を装ってはいたが、流石心中の動揺は覆い隠せなかった。彼は非度く神経的な手附で屍体を弄《いじ》り始めた。屍体は既に冷却し完全に強直してはいるが、その形状は宛ら怪奇派の空想画である。大石に背を凭《もた》せて、両手に珠数をかけて合掌したまま、沈痛な表情で奥の天人像に向って端座しているのだ。年齢は五十五、六、左眼は失明していて、右眼だけをカッと瞶《みひら》いている。燈芯のような躯の身長が精々五尺あるかなしかだが、白足袋を履き紫襴の袈裟をつけた所には、流石《さすが》争われぬ貫録があった。創傷は、顱頂骨と前頭骨の縫合部に孔けられている、円い鏨型の刺傷であって、それが非常なお凸《でこ》であるために、頭顱の略々《ほぼ》円芯に当っていた。創傷の径は約半|糎《センチ》、創底は頭蓋腔中に突入していて、周囲の骨には陥没した骨折もなく、砕片も見当らない。創傷を中心に細い朱線を引いて、蜘蛛糸のような裂罅《れっか》が縫合部を蜒り走っているが、何れも左右の楔状骨に迄達している。そして、流血が腫起した周囲を塗って火山型に盛り上り凝結している所は、宛ら桜実《さくらんぼう》を載せた氷菓《アイスクリーム》そっくりであるが、それ以外には外傷は勿論血痕一つない。のみならず、着衣にも汚れがなく、襞も着付も整然としている。泥の附着も地面に接した部分にだけで、それも極めて自然であり、堂内には格闘の形跡は愚か、指紋は勿論その他の如何なる痕跡も残されていないのだ。
「どうだい、この屍体は、実に素晴らしい彫刻じゃないか」と熊城が
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