から下りて、十分許り池の畔で彼女に遇った。然し、幾ら世事に迂遠な僕でも、密会に均しい場所で誰が莨なんぞ喫うもんか! 以上君の質問にお答えしておく。独身の画描きに確実な不在証明のないと云う事は、万々承知の上だけれども、正直が最善の術策なり――と信ずるが故に……。
 読み終って、法水は悔む様な苦笑をした。
「友情を裏切って、カマをかけて……そして判ったのは、柳江が云えなかったものだけだったよ。態を見ろ法水!」
 それから、彼は独りで池の対岸に行き、水門の堰を調べてから、探し物でもする様な恰好で、俯向きながら歩いていたが、やがて一本の蓮の花を手に戻って来た。
「妙なものを見付けて来たよ」そう云って、花弁を※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》り取ると、中には五、六匹の蛭が蠢いていた。
「堰近くにあったのだが、どうだ良い匂いがするだろう。タバヨス木精《レセタ》蓮と云う熱帯種でね。此の花は夜開いて昼|萎《しぼ》むのだよ。そして、閉じられた花弁の中に蛭がいたとすると、犯人が池の向岸で何をしたか解る筈だがねえ」
「……」検事と熊城は、莨の灰が次第に長くなって行くけれども、遂に答えられなかった。
「判らなければ、僕の方から云おう。犯人が、池の水で血に染んだ手を洗ったのだが、その時附近に水浸しになっていた木精蓮《レセタばす》の一本があったとしたらどうだろう。勿論血の臭気を慕って蛭が群集する事は云う迄もないが、それから間もなく、犯人は浮遊物を流すために[#「犯人は浮遊物を流すために」に傍点]、水門の堰板を開いて水を流したのだ[#「水門の堰板を開いて水を流したのだ」に傍点]。すると、水面が下っただけ、木精蓮は空気中に突出する訳だろう。だから、朝になって花が閉じた時に、残った蛭が花弁に包まれてしまったのだ。だがそれは要するに、偶然現われた現象に過ぎない。堰板を開いた、犯人の真実とする目的と云うのは、玄白堂内の足跡を消すのにあったのだよ」
 ああ法水は、その水流から、何を掴み上げたのだろうか?
「判らなくては困るね。犯人でなくても、誰しも水準の異なった二つの池があれば、それを利用するだろうからね。つまり、此の池の水面を僅か程下げてから、玄白堂の右手にある、池と池溝との間の堰を切ったのだ。すると、池の水が水面の低い池溝の中へ一度に押し出すので、岩の尽きた堂の左側に来ると、ドッと地上に氾濫する。その水勢が地上の細かい砂礫を動かして、堂の左側から胎龍の背後にかけて、そこに残されている足跡を消してしまったのだよ。所が、僕が巻尺を転がして試した通りに、堂内は右手から左手にかけて勾配がついているのだから、雪駄と日和の痕がある辺までは、水が届かない。そして、あの辺は早朝だけ陽差が落ちるので、そうして濡れた跡が、屍体を発見する頃には遂に乾いてしまったのだよ」
「すると、愈《いよいよ》胎龍が何処で殺されたのか――判らなくなってしまう」熊城は瞳を据えて唇を噛んだが、検事は濃厚な懐疑を匂わせて、
「だが、犯人は何故莨を喫ったんだろうな。殺人を犯した人間が、誰が見ているかも知れないのに莨を喫うなんて……その心理が僕にはどうしても判らない。それとも、喬村が捜査官の心理を逆に利用しようとしたのかも知れないが、動機らしいものとそれだけでは、どうしても、喬村を縛る気が出ないじゃないか」
 検事は更に語を続ける。
「それから、謎はもう一つある。と云うのが、提灯の奇体な出没さ。十時に柳江が見てなかったものが、十時半には灯が入って下っていた。またそれが、十一時になると姿を消しているのだ。その三段階の出没に、一体どう云う犯人の意図が含まれているのだろう?」
「ウン、全くあれには惑殺されるよ」熊城も暗然となって呟いた。「それ迄僕は、てっきり犯人の変装だと信じていたのだが、あれに打衝って、その考えが根底から崩れてしまったよ。護摩の火の光だけなら、恐らく有効だろうがね。あのように、左右へ提灯を吊すとなると、莨の火と同様正体を曝露する惧れがある。と云って、それを屍体だとする事は、より以上現実に遠い話だからね。大体法水君、君の意見は?」
 然し法水には、何故か生気があった。
「所がねえ、僕は君達と違って、あの提灯を動かさずに観察して見たんだよ。提灯の中の蝋燭の火だけを凝然と瞶めていたのさ。すると、犯人の不思議な殺人方法が、何んとなく判って来るような気がして来たんだ。今に、天人像の後光と筒提灯との光との間に、一体どう云う不思議な機械が廻転していたものか――それが、屹度判る時期が来るに違いないよ。とにかく、今日は此れだけで打ち切って、僕によく考えさせて呉れ給え」
 そうして、事件の第一日は、謎の山積の儘で終ってしまったが、果して熊城は、柳江・喬村・朔郎の三名を拘引したのだった。

  三、
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