て置くが、それは、性的機能の抑欝から起る麻痺性の疲労なんだ。その証拠が、面皰《にきび》云々の夢で、それが充たされない性慾に対する願望だと云うのは、面皰を潰した痕が女性性器の象徴《シンボル》だからだよ。つまり、それに依って、柳江の方で、胎龍から遠ざかって行ったと云う事が判るだろう。それから、次の木の錠前だが、錠前もやはり女性性器を現わしている。然し、木と云う言葉は、結局木像を意味しているのではないだろうか※[#感嘆符疑問符、1−8−78] すると、像の不思議な後光に打衝《ぶつか》って、初老期の禁ぜられた性的願望が、如何なる症状に転化して行ったか――その行程《プロセス》が明瞭になる。それは、彫像愛好症《ピグマリオニズムス》なんだよ。そうして、胎龍は精神の転落を続けて行ったのだが、勿論それに伴って、性的機能が衰滅する事は云う迄もない。で、その症状を自覚したのが一転機となって、その後の事が最後の夢なのだ。胎龍が自分の一つしかない眼を刳り抜いて天人像に捧げると云うのは、沙門の身であられもない尊像冒涜の罪業を冒した懲罰として、仏の断罪を願望としたからなんだ。ねえ、ジャネーが云ってるだろう。肉体にうける苦痛を楽しむよりかも、精神上の自己膺懲に快楽を感ずると云う方が、よりも典型的なマゾヒィストだと。そう云う風に非常に変った態だけれども、ともかく一種の奇蹟に対する憧憬とでも云えるものが、胎龍の堕ち込んだ最終の帰結点だったのだよ。すると、今年に入ってから胎龍の心理に起った変化が、此れで判然《はっきり》説明が付くじゃないか。そして、それが僕の想像する去勢法の行程を辿っているので、その間主要な点には、必ず外部から働き掛けたものがあったに相違ないのだ。だから、もう少し判って来れば、兇器の推定がつくと云う訳さ」
云い終ると、法水は唖然とした二人を尻目にかけて、悠然と立上った。
「さて、空闥に案内して貰って薬師堂を調べる事にしよう」
薬師堂の階段を上ると、中央には香の燃滓が山のように堆積している護摩壇があり、その背後が厨子形の帷幕《とばり》になっている。幕が開け放しになっているので、眼が暗さに慣れるにつれて、中の薬師三尊が、如何にも熱帯人らしい豊かな聖容を現わして来た。中央は坐像の薬師如来、左右の脇侍、日光月光は立像である。薬師三尊の背後は、六尺程の板敷になっていて、その奥の壇上には、聖観音の像と左右に四天王が二体宛載っている。堂内で採集した指紋には、勿論推理を展開せしめるものがなかった。
「何処を見ても、埃がないですね」と法水が、怪訝そうに空闥に云うと、
「縁日の前日が掃除日でして、未だ三日許りしか経ちませんのですから、足型が残ると云う程の埃はありません。その時、此の筒提灯の中も掃除しますので」
そう云って、空闥が両手に提げて来たのは、伸ばした全長が人間の背丈程もあって、鉄板製の口径が七寸にも及ぶ、真紅の筒提灯が二つ。蝋燭は二つ共に、鉄芯が現われる間際まで燃えていて、其処で消したらしい。法水は、此の提灯から結局何も得る所はなかった。護摩壇前の経机には、右端に般若心経が積み重なっていて、胎龍が唱えたらしい秘密三昧即仏念誦の写本が、中央に拡げられてある。杵鈴を錘に置いて開かれている面と云うのは、「五障百六十心等三重赤色妄執火」と云う一節だった。
「この一巻を始めから唱えていたとすると、此処迄に何分位|費《かか》りますね?」
「左様、二、三十分ですかな」と空闥が答えた。
「すると、八時から始めたとして、八時三十分かな※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」検事が解った様な顔をすると、
「ウン、或は、此処で屍体にしたのを、玄白堂に運び込んだのかも知れない。筒提灯が一つ加わったので、遂々天秤が水平になっちまったよ」と熊城は当惑したように云ったが、その鼻先に、法水は小さな紙包を突き出して、
「これを鑑識課に廻して、顕微鏡検査をして呉れ給え。黒い煤みたいなものなんだが、薬師三尊のうちの、月光の光背にだけ附いていたんだよ」と云ってから、
「赤と赤、火と火!」と小声で、夢見るような呟きをした。
薬師堂の調査を終ってから池畔に出ると、法水が何時の間にか喬村の許へ使を出したと見えて、一人の刑事が一通の封書を手に戻って来た。それには、走り書で次のような文章が認められてあった。
――胎龍君が殺害されたとは実に意外だ。だが、それ以上驚かされたのは、僕が何時の間にか事件中の一人になっていると云う事だ。君は、柳江が僕と結婚するために胎龍君の許を去りたがっている旨を告白したと云う。如何にも、それは事実だ。事実僕は柳江を愛している。そして、二人の関係は去年の暮以来続いているのだが、それが単純な思慕以上には、一歩も踏み出していない事を断って置きたい。勿論昨夜も十時頃だったと思うが、物干
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