爪繰って語り出したのは、仄暗い霧の彼方で暈《ぼっ》と燃え上った、異様な鬼火だったのだ。
――三月晦日の夜、月が出て間のない八時頃の事だった。突然慈昶と朔郎が駈け込んで来て、玄白堂に妖しい奇蹟が現われたと云うのである。それが、天人像の頭上に月暈の様な浄い後光がさしたとの事なので、ともかく一応は調べる事になり、胎龍と空闥の二人が玄白堂に赴いた。所が、堂の内外には何等異常がない許りか、試みに頭上の節穴から光線を落してみても、髪毛の漆が光るに過ぎない。そして、とうとう不思議現象の儘残ってしまったのだが、その翌日から胎龍の様子がガラリと変って、懐疑と思念に耽るようになったと云うのである。
「然し、朔郎は何んとも云いませんでしたよ」聴き終ると法水は、鳥渡皮肉な質問をした。
「そうでしょう。あの大師外道めは、誰かの念入りな悪戯だと云いますでな。てんで念頭にはありますまい。然し、科学とやらでは、どうして解く事が出来ましょうか。いや、解けぬのが道理なのですじゃよ」
「すると、像の後光はその時だけでしたか」
「いや、その後にもう一度、五月十日にありました。その時見たのは、つい先達《せんだって》暇をとった福と云う下女でしてな」
「今度のは何時頃でしたか?」
「左様、確か九時十分頃だったと思いますが、恰度その時私は時計の捻子を捲いて居りましたので、時刻は正確に記憶しとりますので」
次の慈昶は最も他奇のない陳述で終り、一日中外出せず自室に暮していたと云うのみの事だったが、頭蓋がロムブローゾなら振るい付くだろうと思われる様な、一種特異な形状を示していた。法水は慈昶に対する訊問を終えると、胎龍の室に赴いて何やら捜していたが、再び戻って来ると、続いて寺男の浪貝久八を呼ぶように命じた。然し、その――怯々《おずおず》と入って来る老人を見ると、熊城は法水の耳に何やら囁いた。と云うのは……先刻の訊問中に久八が突然癲癇発作を起したために、夕刻の六時から八時半頃迄寺の台所で立働いていた――と云う以外には、聴き取っていない事と、それから、富裕な質屋の主《あるじ》である彼が、何故寺男の生活をしているかと云う理由だった。久八は、永年の神経痛が薬師如来の信仰で癒おったとか云うので、それ以来異常な狂信を抱く様になり、ついぞ此の一月退院するまで、郊外の癲狂院で暮していたのであった。所が、この薬師仏に仕える老人は、一々犯人の足跡を指摘して行った。
「確か十時半頃でしたか、誰が鎖を解いたものか、飼犬の啼き声が池の方でしますのでした。それで、捕えに行こうとして薬師堂の前を通ると、内部《なか》では方丈様が御祈祷中らしく、後向きに坐ってお出でになりました」
「なに、君もか」瞬間、思わず三人の視線が合ったけれども、久八は無関心に続けた。
「所が、その時可笑しなものを見ましてな。縁日の晩にしか使わない赤い筒提灯が両脇に吊してありまして、二つ共に灯が入って居りました」
「ホウ、赤い筒提灯が※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」と法水は衝動的に呟いたが、その下から、眼を挙げて先を促した。
「それから池の畔に行ったのですが、真暗なので犬を深す事が出来ません。それで致し方なく、口笛を鳴らしながら彼此《かれこれ》三十分近くも蹲んで居りますうちに、向う岸の雫石さんの裏手辺りに誰かいたと見えて、莨の吸殻を池の中へ投げ捨てたのが眼に入りましたので。その癖、寺では莨喫みが儂一人だけで御座いますが」
「では、帰りにも提灯が点いていたかね?」
「いいえ、提灯どころか、扉が閉っていて真暗でしたが」
それで、関係者の訊問が終了した。久八が去ると、法水はグッタリとなって呟いた。
「成程、動機と云えるものがない。それに、斯う云うダダッ広くて人間の少ない家の中では、元来|不在証明《アリバイ》を求めようとするのが、無理な話なんだよ」
「けれども、君の云う、機構《メカニズム》の一部だけは、判ったじゃないか」と検事が云うと、法水は鳥渡凄味のある微笑を泛べた。
「所が、いま全体の陰画が判ったのだよ。胎龍の心理が、どう云う風に蝕ばまれ変化して行ったかと云う……」
「フム、と云うのは」
「それはこうなんだ。実は、先刻胎龍の室を捜して、僕は手記めいたものを発見したのだ。勿論他には注目するに足る記述はないけれども、夢を書き遺してくれたので、大変に助かったよ。――五月二十一日に、近頃幾晩となく、木の錠前に腰を掛けた夢を見るのはどうした事だろうとある。それから六月十九日に、自分の一つしかない右眼を刳り抜いて、天人像に欠けている左眼の中に入れた――とあるのだよ。所で、僕はフロイトじゃないが、早速この夢判断をする事にした。実にそれが、胎龍の歪められて行く心理を、正確に描写してあるのだ。で、まず最初に、三月頃胎龍に時々起った失神状態と云うのを説明し
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