ニ色附いている。それが、この惨状全体を、極めて華やかなものにしていたのである。
「熊城君、君は忘れやしまいね。風間九十郎の挑戦状の中に、|来たれ、列柱を震い動かさん《ヘイル・クウェーク・スタイルズ》――とあったのを。それが、とうとう実現されてしまったのだよ」
 検事は、風間の魔術に酔わされて、声にも眼にも節度を失っていた。
「うん、地震でもないのに、この大建築を玩具《おもちゃ》のように揺り動かすなんて、九十郎の不思議な力は底知れないと思うよ。だが、奈落とはよく云ったものさ」
 熊城は屍体から顔を離して、プウッと烟を吐いた。
「この事件でも、舞台の床一重が、天国と地獄の境いじゃないか。サア法水君、奈落へ下りるとしようか」
 いずれにしても惨劇が奈落に於いて行われた事は明らかなので、舞台の上は、事件とは何んの関係もないのだった。それから三人は、煤《すす》け切った陰惨な奈落に下りて行ったが、そこで凡ての局状が明白にされた。
 が、それに先立って、一ことオフェリヤを運んで行く、小川の機械装置に触れて置かねばならぬかと思う。
 それは、前後二つの切り穴を利用して、間に溝を作り、その中で、調帯《ベルト》を廻転する仕掛になっていた。従って、その装置は、戦車などに使う無限軌道のように作られていて、奈落から天井を振り仰ぐと、二重に作られている調帯の中央に、一つ大きな、函様のものが見える。
 それが、オフェリヤを沈ませる装置であって、最初幡江がその函の中に入ると、下には扇風器が設けられてあって、その風のために、水面に浮んだような形で、裳裾が拡がる。そして、廻りながら、腰を落して行くので、てっきり観客の眼には、泥の深みへ、はまり込んで行くように見えるのだった。
 幡江はそれが終ると、扇風器の上にある、簀子の上で仰向けになって、きっかけを、下の道具方に与える。と今度は、調帯が幡江を載せたまませり上って行って、その儘前方の、切り穴から奈落に落し込むのである。
 所が、血の滴りは、調帯の恰度中央辺から始まっていて、最初の切り穴からそこまでの間にはなかった。それを見ても、幡江が刺された場所は明白であり、その高さも、六尺近いものなら、し了《おわ》せるだろうと思われた。けれども、兇器は何処《いずこ》を探しても見当らず、血痕も、調帯《ベルト》の後半以外には皆無だった。尚、当時奈落には、二人の道具方がいたのだったけれども、合憎《あいにく》二人とも、開閉《スイッチ》室に入っていたので、その隙に何者が入り来ったものか、知る由もなかった。
 然し、調査は簡単に終って、三人は法水の楽屋に引き上げた。
「とにかく、犯人が未知のものでないだけでも、助かると思うよ」
 検事は椅子にかけると、すぐさま法水を振り向いて云った。
「つまり、この事件の謎と云うのは、却って犯罪現象にはない。むしろ、風間の心理の方に、あるのじゃないかね。真先に、殺すに事かき自分の愛児を殺すなんて、どうも風間の精神は、常態でないような気がする」
「うん」熊城は、簡単に合槌を打った。
 が、法水は椅子から腰をずらして、むしろ驚いたように、相手を瞶めはじめた。
「なるほど支倉《はぜくら》君、君と云う法律の化物には、韻文の必要はないだろう。然し、さっきの告白悲劇はどうするんだい。あの悲痛極まる黙劇《パントマイム》の中で、幡江が父に、何を訴えたかと思うね」
「なに、告白悲劇……とにかく、冗談は止めにして貰おう」
 と棘々《とげとげ》しい語気で、熊城が遮った。
「どうして冗談なもんか。現に前の幕で、オフェリヤは一々花を取り違えたじゃないか。然し、決してそれは、幡江の錯乱が生んだ産物ではないのだよ。あの女の皮質たるや、実に整然無比、さながら将棋盤の如しさ。ねえ熊城君、僕はエイメ・マルタン([#ここから割り注]花言葉の創始者[#ここで割り注終わり])じゃないがね。人は自分の情操を書き送るのに、強《あな》がちインキで指を汚すばかりじゃない。それを花に托《かこつ》けて、送る事も出来るだろうと思うのだよ」
 そう云って法水は、机の蔭から取り出した花束を、卓上に置いた。二人はその色や香りよりかも、法水が繰り拡げて行く、美しい霧に酔わされてしまった。
「君達にも、記憶が新しいだろうとは思うが、幡江は幕切れの際に、父の最期と云い、これだけの花を舞台に撒き散らしたのだ。最初は花葛《フラワー・クリーパー》――夜も昼も我が心は汝が側にあり――さ。次は木犀草《ミニヨネット》、これは、吾が悩みを柔げんは、御身の出現以外にはなし。それから、尋麻草《ネットル》――貴方は余りに怨深くいらっしゃる。そして、幡江は最後に、この翁草《アネモネ》と紅鳳仙花《レッド・バルサム》とで、結び付けたのだよ。あの女は、|許して下さい《フォア・ギブ・ミイ》、|私にだけ触れないで《タッチ・ミイ・ナット》――と叫んだのだ」
「許してくれ――成程、よく判った」そう云って検事は、皮肉な微笑を法水に投げた。
「然し、それだけでは、決して深奥だとは云われない。第一それでは、風間が吾が子を殺さねばならなかった心理が説明されていない」
「それから王妃の衣川暁子には、二つの花の名を云ったにも拘らず、折れた|雪の下《サクジフルージ》を渡した……」
 検事の抗議にも関《かか》わらず、法水はずけずけと云い続けた。
「それは折れた母の愛――なんだよ。ねえ支倉君、この譬喩《ひゆ》の峻烈味はどうだね。
 それから、レイアティズの小保内精一には、白蠅取草《ホワイト・キャッチフライ》と黄撫子《エロー・カーネーション》を渡して、恥じよ、裏切者――と云い渡しているのだし、
 あの方と云って、その場にいないポローニアス役の淡路研二には、仏蘭西金※[#「(浅−さんずい)/皿」、237−上−5]花《フレンチ・マリゴールド》と蝗豆草《ローカスト》を渡して、復讐《リヴェンジ》、|地下から報い《アフェクション・ビヨンド・グレーヴ》[#ルビの「アフェクション・ビヨンド・グレーヴ」は底本では「アフェクション・ビヨン・グレーヴ」]――と叫んでいる。
 勿論その二人には、風間に対する裏切者と云う意味の、風刺を送った訳だが、寧ろそれは、主謀者だったロンネに送られねばならないだろう。
 所がまた、王に扮したあの男に、渡した花と云うのが、頗る妙なんだよ。第一に、紫丁香花《パープル・ライラック》――これは初恋のときめきだ。それから花箪草《フラワー・マッシュルーム》は、もう信ぜられぬ――と云う意味なんだし、最後には、|紅おだまき《レッド・カラムバイン》を渡して、怖るべき敵近づけり――と警告を発しているのだ。
 それを見ると、二人は曽て恋仲であり、最近には疎んぜられていたにも拘らず、なおかつ幡江は、ロンネの身を庇《かば》おうとしている。所が支倉君、幡江は自分のものとして、紅水仙《グリムスンポスアンサス》をとっている――つまり、心の秘密さ。
 ハハハハ、一つ僕も、その花を取ろうかね。僕は、幡江の最奥のものに触れた手を、しばらくそのまま、そっとして置きたいのだよ」
 法水は冷然と云い放って、湯気のなくなった紅茶を、一気に啜り込んだ。すると、その時扉の向うで、衣摺れがしたかと思うと、その隙間から、楽屋着を押えた孔雀の腕が現われた。
 彼女は、ズカズカ入り込んで来て、法水に声をかけた。
「それなら、私が黒苺《カワント》を貰ったとしたら、どうするんですの、曰く、|正義は遂行されん《ジャスティス・シャル・ビー・ダーン》――でしょう。私、幡江さんの事なら、何んでも聴いて貰いたいと思って、やって来たんですの」
「然し、幡江と云う人は、父親に殺される理由が、一番少ない人物なんじゃありませんか」
 そう云って検事は、孔雀の顔を見上げ、瞼の縁に浮んでいる、奇麗な血管を眺め入った。この淫らがましい獣のような娘を、少しでも見ていると、誰しも忌わしい誘惑を感じ、眩暈《めまい》がして来るのだった。
 孔雀は臆面なく、肥った腰を椅子の上にポンと投げ出して、
「じゃ、まだお気付きにならないのね。父なんて、この小屋の何処にいるもんですか。第一幡江さんが、今夜の亡霊は父が勤めたのだ――なんて云いましたけども、真逆にそんな事、御信用なさってるんじゃありますまいね。もしそうでしたら、法水さんの新釈ハムレットには、至極縁遠い方ですわ。ねえ検事総長、貴方はあのフロイト式解釈には、感覚がないんですの。あの亡霊はハムレットの幻覚で、もともとは、クローディアスにとついだ母に、嫉妬を感じたからなんですって。ねえ如何《どう》、それがもしかしたら、この事件永生の秘鑰《ひやく》かも知れませんわ。それに、もし私だったら――もし柱を震わすような、魔法が出来るんでしたら、多分法水さんにああ云う手紙を送ったでしょうからね。父をいくら捜したって、見付からないのが当然ですわ。それに、めいめいあの当時の不在証明《アリバイ》が判ったそうじゃありませんか。小保内さんにも母にもあるんですってね。すると、ロンネと淡路はどうなんですの。ですから、淡路さんにお聴きなさいってば。そうしたらきっと、二人一役の夢が醒めるにきまってますわ。それから、父はあの夜、もう二度と帰らないと云いました。私は悲しくなって、父の胸に抱きついて、キュッとしめつけてみましたが、やはり同じ事を云って、それなり劇場の前で、別れたのが最後でした」
 と孔雀は、捲毛《まつげ》の先についていた金雀枝の花弁を湿した口に噛ませて、じっと押し黙ってしまった。その花を、法水がスイと引き抜いて、
「たしかこの花降しは、警察の注意で、今夜からしたのでしたね。だが、これに僕は、妙な逆説《パラドックス》を感じているんですよ。あの真に迫った殺し場を、隠そうとしたものが、却って……」
「じゃ、私が犯人だって云うんですの」
 孔雀は眼をクリクリさせたがパッと口を開いて、真赤な天鵞絨《びろうど》のような舌をペロリと出した。
「サア見て頂戴。キプルスでは口に入れた穀粒に、唾のついていない時には、その人間が犯人なんですってね。たとえ、あの時、雪のように降って来る花弁が、私の身体を隠し了せたにしてもだわ。どうして、あの短い間に、奈落まで往復出来るでしょうか。ああ私、ほんとうは隠し通そうとしたのでしたけど、思い切って云ってしまいますわ。実は、父を見たのです。見たどころかいきなり後から脊を打たれて……」
「なに、脊を打たれて……」
 熊城は莨《たばこ》を捨てて、思わず叫んだ。孔雀は左眼をパチリと神経的に瞬いて、
「よく、オフェリヤの棺と間違えますが、衣裳部屋にある櫃の中から、もう一着、亡霊の衣裳を取り出して来いと云われました。私は初日から、雑夫の中に父が混っているのを知っていたのです。だって、喰べ物を口にするとき、辺を見廻わすなんて、誰が父以外にあるもんですか。それで、私は最初断りましたの。すると、私が着換えをしていると、またやって来て、あの大きな影法師に愕《ぎょっ》とした途端、いやというほど拳で脊を打たれました。ですから、右手の扉の方に逃げようとすると、その前へ立ち塞がって、とうとう私は、衣裳盗みをさせられてしまったのです。その時の痛さと云ったら、左の手首にずうんと響いた位ですわ」
 そう云って、取り出した、莨の烟《けむり》の中で、孔雀は裸の腕を擦《さす》り始めた。
「すると、それは何時《いつ》頃ですか」
 法水はその横顔をチラリと見て、事務的な訊き方をした。
「僕は円錐形《コーン》の影が、一体何処を指していたか、知りたいのですよ。貴女はミルトンの『失楽園』の事を、誰からかお聴きになった事がありますか。これは、天上から見た地球の話ですが、太陽の蔭になった方には円錐形《コーン》の影が出来て、それが天頂に達すると夜半。そこと六時との間が、ほぼ九時になると云うのです。つまり、童話の神様が見る時計なんですよ」
「ああ、あの悪魔《ルシファー》がやって来た時のこと……」
 孔雀はちょっと、白い頸窩《ぼんのくぼ》を見せたが、
「最初は多分三時前後だったでしょう。それから二度目に来た時
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