オフェリヤ殺し
小栗虫太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)寵妃《クルチザン》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|悼ましき花嫁《ゼ・マウリング・ブランド》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「さんずい+失」、第3水準1−86−59]
×:伏せ字
(例)極く微妙な×××な結合があるのです。
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序、さらば沙翁舞台よ
[#ここから1字下げ]
すでに国書の御印も済み
幼友達なれど 毒蛇とも思う二人の者が
使節の役を承わり、予が行手の露払い
まんまと道案内しようとの魂胆。
何んでもやるがよいわ。おのが仕掛けた地雷火で、
打ち上げられるを見るも一興。
先で穿つ穴よりも、三尺下を此方が掘り
月を目掛けて、打上げなんだら不思議であろうぞ。
いっそ双方の目算が
同じ道で出会わさば、それこそまた面白いと云うもの。
〔と云いつつ、ポローニアスの死骸を打ち見やり〕
この男が、わしに急わしい思いをさせるわい。
どれ、この臓腑奴を次の部屋へ引きずって行こう。
母上、お寝みなされ。さてもさて、この顧問官殿もなあ
今では全く静肅、秘密を洩らしもせねば、生真目でも御座る。
生前多弁な愚か者ではあったが
ささ、お前の仕末もつけてやろうかのう。
お寝みなされ、母上。
〔二人別々に退場――幕〕
[#ここで字下げ終わり]
そうして、ポローニアスの死骸を引き摺ったハムレットが、下手に退場してしまうと、「ハムレットの寵妃《クルチザン》」第三幕第四場が終るのである。緞帳の余映は、薄っすらと淡紅《とき》ばみ、列柱を上の蛇腹から、撫で下ろすように染めて行くのだった。その幕間は二十分余りもあって、廊下は非常な混雑だった。左右の壁には、吊燭台や古風な瓦斯灯を真似た壁灯が、一つ置きに並んでいて、その騒ぎで立ち上る塵埃《じんあい》のために、暈と霞んでいるように思われた。そして、あちこちから仰山らしい爆笑が上り、上流の人達が交わす嬌声の外は、何一つ聴こえなかったけれども、その渦の中で一人超然とし、絶えず嘆くような繰言を述べ立てている一群があった。
その四、五人の人達は、どれもこれも、薄い削いだような脣をしていて、話の些《さ》中には、極まって眉根を寄せ、苦い後口を覚えたような顔になるのが常であった。その一団が、所謂《いわゆる》 Viles([#ここから割り注]碌でなしの意味――劇評家を罵る通語[#ここで割り注終わり])なのである。
彼等は口を揃えて、一人憤然とこの劇団から去った、風間九十郎の節操を褒め讃《たた》えていた、そして、法水麟太郎《のりみずりんたろう》の作「ハムレットの寵妃《クルチザン》」を、「|悼ましき花嫁《ゼ・マウリング・ブランド》([#ここから割り注]チャールス二世の淫靡を代表すると云われるウィリアム・コングリーヴの戯曲[#ここで割り注終わり])」に比較して、如何にも彼らしい、ふざけるにも程がある戯詩《パロディ》だと罵るのであった。
が、訝《お》かしい事には、誰一人として、主役を買って出た、彼の演技に触れるものはなかったのである。所が、次の話題に持ち出されたのは、いまの幕に、法水が不思議な台詞《せりふ》を口にした事であった。
その第三幕第四場――王妃ガートルードの私室だけは、ほぼ沙翁の原作と同一であり、ハムレットは母の不貞を責め、やはり侍従長のポローニアスを、王と誤り垂幕越しに刺殺するのだった。その装置には、背面を黒い青味を帯びた羽目《パネル》が※[#「糸+尭」、224−上−10]っていて、額縁《プロセニアム》の中は、底知れない池のように蒼々としていた。そうした、如何にも物静かな、悲しい諦めの空気は、勿論申し分なしに王妃の性格を――|弱き者《フレイリー》よと嘲けられる、弱々しさを様式化してはいたが、俳優二人の峻烈な演技――わけても王妃に扮する、衣川暁子《きぬがわあきこ》の中性的な個性は、充分装置の抒情的な気息《いぶき》を、圧倒してしまうものであった。
所が、その演技の進行中、法水は絶えず客席に眼を配り、何者か知りたい顔を、捜し出そうとするような、素振りを続けていた。そして、幕切れ近くなると、王妃との対話中いきなり正面を切って、
「僕は得手勝手な感覚で、貴方の一番貴重な、一番微妙なものを味い尽しましたよ。ですから、それを現実に経験しようとするのは、よそうじゃありませんか」と誰にとなく大声に叫んだのだった。
勿論そのような言葉が、台本の中にあろう道理とてはない。或は、日々の悪評に逆上して、溜り切った欝憤を、舞台の上から劇評家達に浴せたのではないかとも考えられた。けれども、冷静そのもののような彼が、どうしてどうしてさように、端たない振舞を演じようとは思われぬのである。然し、そうして根掘り葉掘り、さまざま詮索を凝らしているうちに、ふと彼等の胸を、ドキンと突き上げたものがあった。
と云うのは、はじめ座員に離反されて、失踪して以来、かれこれもう、二ヵ月にもなるのだが、それにも拘らず、生死の消息さえ一向に聴かない風間九十郎のことである。
事に依ったら、何時の間にか九十郎は、この劇場に舞い戻っていたのではないか。そして、こっそりと観客の中にまぎれ込んでいたのを、法水の烱眼《けいがん》が観破したのではないだろうか……。だが、云うまでもなく、それは一つの臆測であろうけれども、風間の神秘的な狂熱的な性格を知り、彼の悲運に同情を惜しまない人達にとると、何んとなくそれが、欝然とした兆《きざし》のように考えられて来る。
何か陰暗のうちに、思いも付かない黙闘が行われているのではないか――そう考えると、はやそれから、秘密っぽい匂が感じられて来て、是非にも、最奥のものを覗き込みたいような、ときめきを覚えるのだった。
もしやしたら、この壮麗を極めた沙翁記念劇場の上に、開場早々容易ならぬ暗雲が漂っているのではないか――そうした怖れを浸々と感ずるほどに、この劇場は、既に風間の魂を奪い、彼の望みを、最後の一滴までも呑み尽してしまったのであった。
然し、何より読者諸君は、法水が戯曲「ハムレットの寵妃《クルチザン》」を綴ったばかりでなく、主役ハムレットを演ずる、俳優として出現したのに驚かれるであろう。けれども、彼の中世史学に対する造詣《ぞうけい》を知るものには、何時か好む戯詩として、斯うした作品が生まれるであろう事は予期していたに相違ない。
その一篇は、「黒死館殺人事件」を終って、暫く閉地に暮しているうち、作られたものだが、もともとは、女優|陶孔雀《すえくじゃく》に捧げられた讃詩なのである。
現に孔雀は、劇中のホレイショに扮しているのだが、この新作《ニュー・ヴァージョン》では、ホレイショが女性であって、ヴィッテンベルヒに遊学中、ハムレットと恋に落ちた娼婦と云う事になっている。
つまりその娼婦を、男装させて連れ帰ったと云うのが、悲劇の素因となり、全篇を通じて、色あでやかな宮廷生活が描写されて行く。そして、ホレイショはまず、嫉妬のためにオフェリヤを殺す。しかも一方では、王クローディアスやレイアティズとも関係するばかりでなく、末には諾威《ノルウェー》の王子フォーティンプラスとも通謀して、ハムレット亡き後の丁抹《デンマーク》を、彼の手中に与えてしまうのである。
その女ホレイショの媚体は、孔雀の個性そのものであるせいか、曽ての寵妃中の寵妃――エーネ・ソレルの妖|※[#「さんずい+失」、第3水準1−86−59]《しつ》振りを凌ぐものと云われた。
従ってこの淫蕩極まりない私通史には、是非の論が喧囂《けんごう》と湧き起らずにはいなかった。第一、女ホレイショの模本があれこれと詮索されて、或は妖婦イムペリアだとか、クララ・デッティンだとか云われ、またグラマチクスの「丁抹史《ヒストリア・ダニカ》」や、モルの「|文学及び芸術に於ける色情生活《ディ・エロティクス・イン・リテラツル・ウント・クンスト》[#ルビの「ディ・エロティクス・イン・リテラツル・ウント・クンスト」は底本では「ディ・エロティクス・イン・リテラツル ウ・ト・クンスト」]なども持ち出されて、些細な考証の、末々までも論議されるのだった。
然し、劇壇方面には、意外にも非難の声が多く、結局、華麗は悲劇を殺す――と罵られた。勿論その声は、風間九十郎に対する隠然たる同情の高まりなのであった。
風間九十郎は、日本の沙翁劇俳優として、恐らく古今無双であろう。のみならず、白鳥《スワン》座の騎士――と云われたほどに、往古のエリザベス朝舞台には、強い憧れを抱いていた。
(前《ボーダー》、奥《ハインダー》、高《アッパー》)と、三部に分れる初期の沙翁舞台――。その様式を復興しようとして、彼は二十年前の大正初年に日本を出発した。それから地球を経めぐり、スタニスラウスキーの研究所を手始めにして、凡ゆる劇団を行脚《あんぎゃ》したのだった。
けれども彼の、俳優としての才能はともかくとして、その持論である演出の形式には、誰しも狂人として耳をかそうとはしなかった。そして、疲れ切った身に孔雀を伴い、敗残の姿を故国に現わしたのが、つい三年前の昭和×年――。
そう云えば、滞外中九十郎が、第二の妻を持ち、その婦人とは、ラヴェンナで死別したと云う噂はあったけれども、その浮説が遂に、混血児の孔雀に依り裏書された訳である。
然し、日本に戻ってからの九十郎には、言葉に不馴れのせいもあって、それは非道い、厭人癖が現われていた。のみならず、声音《こわね》までも変ってしまって、その豊かな胸声は、さながら低音の金属楽器《ブラス》を、聴く思いがするのだった。然し、その後の生活と云えば、どうして不幸どころではなかったのである。
二十年前|情《すげ》なく振り捨てた、先妻の衣川暁子も、その劇団と共に迎えてくれたのだし、当時は襁褓《むつき》の中にいた一人娘も、今日此の頃では久米幡江《くめはたえ》と名乗り、鏘々《そうそう》たる新劇界の花形となっていた。そうして、僅かな間に、鬱然たる勢力を築き上げた九十郎は、秘かに沙翁舞台を、実現せんものと機会を狙っていた。
所へ、向運の潮《うしお》に乗って、九十郎を訪れて来たものがあり、それが外ならぬ、沙翁記念劇場の建設だった。最初その計画は、九十郎の後援者である、一、二の若手富豪に依って企てられたのだが、勿論その頃は、一生の念願とする、沙翁舞台が実現される運びになっていた。
ところが、そこへ他の資本系列が加わるにつれて、九十郎の主張も、いつかは顧みられなくなってしまった。それではせめて、クルーゲルの沙翁舞台とも――と嘆願したのであったが、それさえ一蹴されて、ついに[#「ついに」は底本では「つひに」]その劇場は、バイロイト歌劇《オペラ》座そっくりな姿を現わすに至った。
もちろん舞台の額縁《プロセニアム》は、オペラ風のただ広いものとなった。また、その下には、隠伏奏楽所《ヒッヅン・オーケストラ》さえ設けられて、観客席も、列柱に囲まれた地紙形の桟敷《さじき》になってしまった。これでは、如何にしようとて、沙翁劇が完全に演出されよう道理はない。九十郎は一切の希望が、その瞬間に絶たれてしまったのを知った。
しかも、それと同時に、彼を悲憤の鬼と化してしまうような、出来事が起った。と云うのは、一座が九十郎を捨てて、一人残らず劇場側に走ってしまったからである。
恐らくその俸給の額は、絶えず生計の不安に怯え続け、安定を得ない座員の眼を、眩《くら》ますに充分なものだったであろう。わけても、妻の暁子から娘の幡江、孔雀までが彼を見捨てたのであるから、ついに九十郎は、一夜離反者を前にして、激越極まる告別の辞を吐いた。そして、その足で、何処ともなく姿を晦《くら》ましてしまった――と云うのが、恰度二月ほどまえ、三月十七日の夜のことだったのである。
それなり、バルザックに似た巨躯は、地上から消失してしま
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