い、あの豊かな胸声に、再び接する機会はないように思われた。が、また一方では、それが法水麟太郎に、散光《ライム》を浴びせる動機ともなったのである。
 あの一代の伊達男《だておとこ》――犯罪研究家として、古今独歩を唱われる彼が、はじめて現場ならぬ、舞台を蹈む事になった。然し、決してそれは、衒気《げんき》の沙汰でもなく、勿論不思議でも何んでもないのである。曽て外遊の折に、法水は俳優術を学び、しかもルジェロ・ルジェリ([#ここから割り注]アレキサンドル・モイッシイと並んで、欧州の二大ハムレット役者[#ここで割り注終わり])に師事したのであるから、云わば本職はだしと云ってよい――恐らく、寧ろハムレット役者としては、九十郎に次ぐものだったかも知れない。
 従って、興業政策の上から云っても、彼の特別出演は上々の首尾であり、毎夜、この五千人劇場には、立錐の余地もなかった。そして、恰度その晩――五月十四日は、開場三日目の夜に当っていた。
[#ここから2字下げ、22字詰め、罫囲み]
   ハムレツトの寵妃《クルチザン》

    登場人物

ハムレツト         法水《のりみづ》麟《りん》太郎

王クローデイアス      ルツドヰツヒ・ロンネ

王妃ガートルード      衣川暁子《きぬがはあきこ》

父王の亡霊    ┐
         ├    淡路《あはぢ》研二
侍従長ポローニアス┘

ポローニアスの息
レイアテイズ        小保内《こぼない》精一

同娘
オフエリヤ         久米幡江《くめはたえ》

ホレイシヨ         陶孔雀《すえくじゃく》
[#ここで字下げ、罫囲み終わり]

  一、二人亡霊

 法水《のりみず》の楽屋は、大河に面していて、遠見に星空をのぞかせ、白い窓掛が、帆のように微風をはらんでいた。
 彼が、長剣の鐺《こじり》で扉をこずき開けると、眼一杯に、オフェリヤの衣裳を着た、幡江の白い脊が映った。そして、卓子《テーブル》を隔てた前方には、前の幕合から引き続き坐り込んでいる、支倉《はぜくら》検事と熊城捜査局長が椅子に凭《もた》れていた。
 検事は法水の顔を見ると、傍《かたわら》の幡江を指差して云った。
「ねえ法水君、実はさっきから、このお嬢さんが、君に役者を止めろ――と云っているんだぜ。とにかく、俳優としてよりも、探偵としての、君であって欲しいと云うんだからね」
 その言葉が幡江の表情を硬くしたように思われた。久米幡江は、半ば開いた百合のように、弱々しい娘だった。
 頸は茎のように細長く、皮膚は気味悪いほどに透明で、血の管が一つ一つ、青い絹紐のように見える。そして、肩の顫えを見ても、何か抑え切れない、感動に戦《おのの》いているらしかった。
 幡江は法水を振り向いて、その眼を凝然《じっ》と見詰めていたが、泣くまいと唇を噛んでいるにも拘らず、やがて二筋の涙が、頬を伝って流れ落ちた。
 それに、法水は静かに訊ねた。
「ねえ、何を泣いているんです。貴方のお父さんの行衛なら、僕はその健在を、断言してもいいと思いますがね。いいえ、大丈夫――十日の興業が終ってからでも、結構間に合うんですから。今朝の英字新聞で、僕の事を|畏敬すべき《レスペックタブル》――と云いましたっけね。だがそれは、一体どっちなんでしょうか。俳優としてか、それとも、探偵としての法水にでしょうか」
「ええ、お話したいのは父の事なんですけど」
 幡江の瞳が、異様に据えられたかと思うと、みるみる全身が、はちきれんばかりに筋張って来た。「貴方は、いまの幕の亡霊を、淡路さんの二役だとお思いになりまして」
 その亡霊と云うのは、云うまでもなく、ハムレットの父王の霊の事である。
 所が、配役の際に、その亡霊役一つだけが余ってしまったので、止むなく法水は、台本を訂正しなければならなくなった。
 と云って、王クローディアスに扮する、独逸人俳優ルッドイッヒ・ロンネは傍《かたわら》演出者を兼ねているのだし、レイアティズ役の小保内精一《こぼないせいいち》は、音声上役どころでないと云った訳で、よんどころなく亡霊の台詞を消し、ポローニアスの屍体を、幕切まで露《あら》わさないようにした。そしてその間に、その役の淡路研二を使って、一人二役を試みるより外になかったのである。
 つまり、垂幕の蔭を|切り穴《グレイウ・トラップ》の上に置いて、その中で、亡霊の扮装と吹き換えを行い、それが済むと淡路は穴から奈落に抜け、舞台の下手に現われると云う趣向にした。
 然し、何故に幡江は、その二役の淡路に疑念を抱いているのであろうか。法水はその一度で、好奇心の綱をスッポリと冠せられてしまった。
「では、その吹き換えの謎を、淡路君に訊ねてみましたか。合憎とあの男は、僕の剣を喰ったが最後なんです。何しろ殺されたポローニアスなんですからね。あの狭い中で、動けばこそですよ。それで、僕に斯んな愚痴話をしましたがね。――苦しいの何んのって、垂幕に向っては、碌々充分に呼吸《いき》さえつけないって」
「ええ、あの方は、私にいい加減な嘘を並べ立てました。だって、あの亡霊は、擬《まぎ》れもない父だったのですから」
 幡江の淑《しと》やかな頬に、血の気がのぼって、神経的な、きっぱりした確信を湛えた顔に変ってしまった。
 が、それを聴いた瞬間、検事と熊城は椅子を揺《ゆす》って笑いこけたが、法水だけは、この娘の幻に、不思議な信頼を置いているかの如くに見えた。
「それは斯うなんですの。ねえ法水さん。貴方だけは真面目にお聴き下さるでしょうね。いまの幕の間に、私は下手の舞台練習室に居りました。それは、入水([#ここから割り注]小川に落ちて溺れるオフェリヤ最後の場面[#ここで割り注終わり])の際の廻転に馴れるよう、実は稽古して居たからなんです。と云いますのは、身体《からだ》の調子のせいですかしら、どうも廻っているうちに、胸苦しくなって来るのです。それで、母も孔雀さんも、前々から、身体だけは馴らして置いた方がいい――と云うものですから、彼処《あすこ》の廻転椅子で、その稽古をする気になりました。所が、その椅子にかけて、緩く廻って居りますうちに、いきなり私の身体が慄《ぞっ》と凍り付いて、頭の頂辺《てっぺん》にまで、動悸がガンガンと鳴り響いて参りました」
「そうですか。しかし、貴女に休演されることは、この際何よりの打撃なんですからね。出来ることなら、少しくらいの無理は押し通して頂きたいんですよ。本当は、二、三日静養なさるといいのですがね。わけてもそう云う、幻覚を見るような状態の時には……」
 法水は、撫然と語尾を消したが、それが却って、幡江の熱気を掻き立てた。
「ああ、貴方も幻だと仰言るのね。ところが法水さん、その幻が――それが、どうしてどうして、幻とは思われないほど、鮮かな形で現われたのですわ。御存知の通り、あの室には入口が二つありまして、一つは舞台裏に、もう一つは舞台の下手に続いているのですが、その時舞台から、退場して来る亡霊と云うのが、なんと父では御座いませんでしたろうか。ねえ法水さん、あれは他の老役《ふけやく》とは違いまして、貴方の好みから、沙翁の顔を引き写したので御座いましょう。ですから、髭も顎鬚も細くて、そこから鼻にかけての所が、恰度光線の工合で、十字架のように見えるのです。すると、その亡霊の髭が、絶えずビクビク動いているのでした」
[#舞台の図(fig45231_01.png)入る]
「しかし、髭が動いたと云う事に、何か特別の理由でもあるのですか」
「ええ、無論のこってすとも。それが隠そうたって、隠し了《おわ》せない、父の習慣なんですから。父はいつも、顔にチック([#ここから割り注]ビクビク顔を顰める無意識運動[#ここで割り注終わり])を起す癖があるんですの。ですから、懐かしさ半分、怖さ半分で、言葉が咽喉にからまり、目の前に靄のようなものが現われて来て、もしやしたら、父は死んでいるのでないかと思うと、その顔に覗き込まれたように慄然《ぞっ》となって、もう矢も楯もなく、私はハッと眼を瞑《と》じてしまいました。すると、その反動で、廻転椅子が廻り始めたのですが、それが幾分緩くなったかと思うと、今度はそれに手をかけて、いきなりグイと、反対の方へ廻したものがありました。父――私は、ただそうとのみ感じただけで、その瞬間、神経が寸断寸断《ずたずた》にされたような、痳痺を覚えました。けれども、一方にはまた、妙に強い力が高まって来て、いっそ父と話してみたい欲求に駆られて来たのです。それで、眼を開いてみますと、亡霊の後姿はもうそこにはないので、私は思い切って、舞台裏の方へ駈けて行きました。すると、道具裏の垂幕の蔭には――そこには、淡路さんが居りましたのですけど」
「ああ、それが淡路君なんでしたか。それなら、何もそう、奇異《ふしぎ》がる理由はない訳じゃありませんか。きっと、あの男ですよ――貴女にそう云う悪戯《いたずら》をしたのが――。で、その時は、まだ亡霊の扮装で居りましたか?」
 そうしてはじめて法水は、気抜けしたように莨を取り出した。しかし、遂にその一人二役は、幡江の心中に描かれていた、幻とだけでは収まらなくなってしまった。
「いいえ、もうすっかりポローニアスになっていて、亡霊の衣裳を側に置いたまま、寝そべっていたのです。けれどもあの方は、一向何気なさそうな顔付で、舞踊練習室は通らなかった――と云うのでした。そう云えば、あの室の前には、横へそれる廊下が御座いますわね。所が、その時|衣《きぬ》摺れのような音が――たしか天井の、それも簀子の方へ行く、階段の口あたりでしたと思われたのです。と云って、その前後には、何も床板を蹈むような音はしなかったのですから、私は不審に思い行ってみました。すると、そこにあるのは、脱ぎ捨てられた、亡霊の衣裳では御座いませんか。そして、簀子の上の方で、チラチラ動いている影が、眼に映りました。けれども、私はもうその上追う事が出来なくなりました。と云うのは側の時計を見ますと、それが恰度九時になっていたからです。いいえ法水さん、たしかに父は[#「たしかに父は」に傍点]、いまこの劇場の[#「いまこの劇場の」に傍点]、何処かにいるに違い御座いませんわ[#「何処かにいるに違い御座いませんわ」に傍点]。ところ[#「ところ」に傍点]が[#「ところ[#「ところ」に傍点]が」はママ]私達は、どれもこれも卑怯者ばかりなんですの。父の一生を台なしにして、あの無残な破滅に突き落してしまった……」
 幡江は膝頭をわなわなと顫わせ、辛ろうじて立っているように思われた。
 所で、彼女がいま、九時と云う時刻を口にしたのだったが、その理由を云うと、道具建ての関係で時間が遅れた場合には、続く二場を飛び越えて、次を、オフェリヤ狂乱の場とする定めになっていたからである。
 しかし、不思議な事には、検事の時計も、熊城のも、指針がまだ九時には達していなかった。そして、今がかっきり八時五十分だとすると、その時計が九時を指している頃は、ほぼ八時三十分頃ではなかっただろうか。更に、その時計を進ませたと云うのには、何か幡江の追及を阻《こば》む意外[#「意外」はママ]にも、意味があるのではないだろうか――などと考えて来ると、法水の頭の中が急にモヤモヤとして来た。
 が、思い付いたように、化粧鏡の抽斗《ひきだし》から何やら取り出して、その品を卓上に載せた。けれども、その口からは、意外な言葉が吐かれて往ったのである。
「幡江さん、僕はこの品一つで、一人の男の心動を聴き、呼吸の香りを嗅ぐ事が出来ました。とうにこの通り、貴女のお父さんから、消息を貰っているのですよ」
 そう云って、突き出したのは、洒落れた婦人用の角封だった。が、内容を読み終ると、同時に三人は、呆気にとられた眼で法水を見上げた。
 それは、韻律を無視した英詩で記されたところの、次のファン・レターに過ぎなかったのである。

       In his costumes he recites
 The
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