ヘ、正確に憶えていますけども、それが六時十五分だったと思いますわ」と云って、放逸な焔を眼一杯に輝かせた。
そして桃を包んだそのもののような、生毛《うぶげ》が生えている腕を露わに投げ出して、それには打たれても避けそうもない、まるで身体を擦り付けて来るようなものが感ぜられた。
然し、孔雀の垂れた睫毛の間が、しんみりと濡れて来て、
「もう訊く事がないのなら、今度は私の話を聴いて頂戴。ほんとうに法水さん、つくづく今度と云う今度は、役者が嫌になりましたの。もうこの興業が終ったら、いっそ生活を変えて、私、子供でも生んでみたくなりましたわ」
孔雀が去った後でも、何やら四肢五体を、ほぐらかすようなものが残っていた。法水はプカプカ莨を灰にしながら、黙考に耽けっていたが、熊城は絶えず揉手をしながら、悦に入っていた。
「法水君、結局君の智能が孔雀を救った事になるじゃないか。そうでなければ、仮令《たとえ》犯行が奈落で行われたにしてもだ。誰しも一応は、あの震動が孔雀の擾乱《じょうらん》手段ではないか――と考えるだろうからね」
今までも、あの不可解な震動については、妙に法水は沈黙を守っていた。その時も、彼は別の事を考えていたらしく、いきなり検事を振り向いて、
「ねえ支倉君、君が知ろうと欲している、心理上の論理だが、一つ僕は、その確固たるものを握っている。だが、九十郎と幡江は、おなじ同肉同血の親子じゃないか。その中で、たとえどのような動機があるにしてもだ。ああも容易《たやす》く、自然の根や情愛が、運び去られてしまうものだろうか……」
と暫く莨を持ったまま、ポツネンとしていたが、その時|喚《よ》ばれた、ルッドイッヒ・ロンネが入って来た。
ロンネは鳥渡見ただけでは、三十前後にしか見えないけれども、彼は四十を幾つか越えていて冷たい片意地らしい、尖《とんが》った鼻をした男だった。そして、入るとすぐ、故意《わざ》とらしい素振りをして、
「法水さん、貴方ほどの方が、不在証明《アリバイ》なんて云う、運命的な代物を信じようとはなさいますまいね。僕はこの通り、不在証明もなければ、空寝入りしようともしませんよ」
「いや、運命的なのは、オフェリヤ狂乱そのものじゃありませんか」
法水は甲を顎にかって、突飛《とっぴ》な譬喩めいたものを口にした。
「実は、君に聴こうと思って、待ち兼ねていたのですが、たしかこの劇場の中には、もう一つ――ねえロンネ君、もう一つ屍体がある筈ですがね」
その瞬間、ロンネの長身が竦んだように戦いて、殆んど衝動的らしい、苦悩の色が浮かび上った。そして、ゴクゴク咽喉を鳴らして、唾を嚥《の》み込もうとしているのを、法水は透かさず追求した。
「僕は、不図した機会から、誰一人知らない――君と幡江との関係を知る事が出来たのです。然し、幡江は狂乱の場で、自分のために紅水仙をとったのですが、それを花言葉で解釈すると、心の秘密と云う事になるのです。だが、まあそれはそれとして、それから何故、台詞を台本通りに云わなかったのでしょうか。迷迭香《ローズ・メリー》でも――と云って、その次に、それでも|百合の花《フルール・ド・ルス》でもどっちでもいいのだけれど、きっと凋んで[#「凋んで」は底本では「凅んで」]しまうだろう――と云った。しかも、その百合の花を、フルール・ド・リシイと発音しているのですが、そうなると僕は、是が非にもフロイトぐらい、担ぎ出さなくてはなりますまい。何故なら、人間の心理的機構と云うものは、至って奇妙なもので、類似した二つの言葉があると、一方の何処かに、その強い方のものが影響してしまうのです。つまりフルール・ド・リシイと語尾を云い違えたのは、迷迭香《ローズ・メリー》と云って、Rose と Mary と二つの言葉を思い浮かべたために、それが聯想的に引き出したものがあったからです。ねえロンネ君、フルール・ド・リシイにフリードリッヒ――。この二つの音が非常によく似ているために、ルスをリシイと発音してしまったのですよ。つまり迷迭香《ローズ・メリー》でも|百合の花《フルール・ド・ルス》でも――と云った台詞の意味は、もし女の子が生まれたらローザかマリア、男の子だったらフリードリッヒと附けよう――。そう生まれる子の名定めを、幡江がいじらしくも、思い続けていたからなんです。ねえロンネ君、幡江は君の種を宿していたのだ。そして、今夜を限り、君が堕胎させようとしたその子は、闇から闇に葬られてしまったのだよ」
法水の意表に絶した透視のために、勝敗がこの一挙に決定してしまった。
ロンネの蒼ざめた影のような身体が、扉から蹌踉《よろめ》き出たのはそれから間もなくの事で、法水は何んと考えたか、それなり追求を止めて去らしめてしまった。然し、その一事は、事件の表裏二様に咲いた、二つの花に等しかったのである。
やがて、検事がいそいそとして、その意味を口にした。
「君は早々に、この事件の賽の目を、二つだけにしてくれた――その事は、何んと云っても感謝するよ。幡江が、自分の仇敵であるロンネから離れられず、あまつさえ、その種を宿しているのだとしたら、風間の憎悪は、第一自分の肉身にかかって行くだろう。また、妻のあるロンネにとると、幡江が仇し子を生むと云う事は、どんなに怖しい事か。そして、幡江から堕胎を拒絶されたとすれば、それは母子《おやこ》ごと葬ろうとしたと云っても、もはや心理上の謎でなくなるのだ。おまけに不在証明はないのだし、六尺豊かなあの男なら、幡江の咽喉を下から刺し貫く事も出来るだろう」
「いや、そうされるのは、多分法水さんの方でしょうよ。いま小保内のやつが、最後の幕で彼奴《あいつ》の胸をぶん抜いてやる――と力味返っていましたぜ」
と背後で太い濁声《だみごえ》がしたかと思うと、何時の間にか、そこには淡路研二が突っ立っていた。
この老練な新劇界の古|強者《つわもの》は、臆する色もなく、椅子を引き寄せた。彼はずんぐりとした胴に牡牛のような頸を載せていて、精悍そうな、それでいて、妙に策のありそうな四十男だった。
「何しろ小保内には、照明掛りの証言があるんですからね。自然気の強い事も云える訳ですが僕は今始めて、舞台裏にも、絶海の孤島と云うやつがあるのを知りましたよ。所で、これだけ云ってしまえば、もうそれ以外に、お訊ねになる事はないと思いますが、ああそうそう、貴方から幡江さんの幻覚論を伺うんでしたっけな」
「いや、あの両所存在《ピロケーション》([#ここから割り注]同時に一人の人物が異なった場所に出現する事[#ここで割り注終わり])の謎なら、とうから僕は問題にしちゃいませんがね」
法水は、眦《めじり》に狡るそうな皺を湛えて、云い出した。
「あの時、亡霊に吹き変ってから、君はたしか奈落へ下りたでしょう。そうすると、君にとって何んとも不幸な暗合が生まれてしまうのです。君は、クリテウムヌスの『虚言堂《ブギアーレ》』を読んだ事がありますか。羅馬《ローマ》の婦人は、男の腰骨を疲れさせるばかりではなかったそうです。凍らせた月桂樹の葉で、手頸の脈管を切ったとか云いますからね」
「なに、それでは僕が、その間に何か、仕掛でも作って置いたと云うのですか」
淡路の顔には、突然憤怒が漲って、両手をわなわなと顫わせた。が、そうしているうちに、その硬張った筋が次第に弛んで行って、何か激情を解かして行くものが、あるように思われた。
やがて、淡路は切なそうな諦めの色を現わして、
「止むを得ません。自分の無辜《むこ》を証明するためには、恩師との約束も反古にせんけりゃならんでしょう。実はあの時、僕は奈落に降りはしなかったのです」
と奈落と云う言葉を口にすると、左り眼を奇妙にビクリと瞬き、淡路は風間の存在を裏書した。そして、最後に付け加えて、
「そんな訳で、今では僕も小保内も、恩師に反いた事を後悔して居ります。そして、貴方と云う侵入者に、決して快よくない事は、今も聴いた小保内の言葉でもお判りでしょう。だが、どうして師匠が捕まるもんですか。決して決して捕まりっこありませんぞ」
遂に、法水の巧妙なカマが、淡路の口を割り、あの朦朧とした幻が、実在に移される事になった。そうして次々と、焦点面に排列されてゆく風間の姿は、最早疑うべくもないものになってしまった。
然し、法水の顔は、益々冴えないものとなって、間もなく衣川暁子が、入って来たのも気附かないほどであった。
風間九十郎の妻、幡江の母暁子は、既に二十余年も新劇のために闘い続けている。そのためか、暁子の容姿からは女らしさが失せていて、眼は落ち窪み、鼻翼には硬い肉がついて、何かしら、冷酷な感情と狂熱めいた怖しさを覚えるのだった。
彼女は座につくと、胸をせり上げ、荒々しい語気を吐いた。
「どうしたって云うんでしょう。あのメデアみたいな男が、捕まらないなんて。彼奴は、自分の目的のためなら、それが吾が子だって、殺し兼ねませんわ。私、あの男の眼も胸も剥り抜いてやって、いっそ片輪にしてしまいたいんですの」
「いや、僕は決して、そうとは信じませんね」
法水は強く否定して、今までにない厳粛な調子になった。
「そうなったら第一、人間生活の鉄則がどうなってしまうのでしょう。父と娘《こ》――その間には無意識ですが、極く微妙な×××な結合があるのです。いっそこの事件は、父に依っては絶対に行えないものだ[#「父に依っては絶対に行えないものだ」に傍点]――と云いましょうか」
「では、父でないとすると」
暁子は冷やかに云ったが、顔には包むにも包み了せようのない、憎悪の波が高まって行った。
「ですから、いま貴方が云われたメデアと云う名を、僕はクリテムネストラに変えて貰いたいんです。姦通・嫉妬・復讐――ねえ暁子さん、ロンネと幡江は、今までどんな関係にあったのでしょうか」
と風間が帰朝してからも、尚絶とうともしないロンネとの不倫な関係を、法水は暗に仄めかした。そして、暁子の怖し気な眼を見やりながら、
「なるほど子供は、自分の血と肉を分けた、一部に違いありません。だがもし、その愛と同じ程度の、憎しみが傍《かたわら》にあるとしたらどうなりましょう。そうなると、母親の残虐性は、もはや心理上の謎ではなくなってしまうのですよ。僕は思い切って云いますが……」
と云いかけたときに、暁子は、聴くまいとするものの如く立ち上った。そして、引っ痙れた顔を、法水にピタリと据えて、
「よろしい、私は自分自身で、風間を探し出しますわ。でも貴方は、私に斯う仰言りたいのでしょう。お前は、吾が子の死の悲しみを忘れ、そうしてまでも、自分だけを庇《かば》おうとする――って。結局、風間を突き出すのが、一番いい方法だと云う事は、私にもようく分っているんですの」
そうして、暁子は去ってしまったが、今の問答は何んとなく、法水の詭弁のように思われた。四人をほしいままに踊らせたと云うのも、それぞれに底を割ってみれば、風間を捜し出す、前提に過ぎないのではないだろうか。
然し、それまでに宏壮な場内を、隅々までほじり散らしたにも拘らず、遂に風間は発見されなかった。そして、事件の第一日は空しく終ってしまった。
三、風間九十郎の登場
翌日は、他の劇団から傭った女優で、欠けたオフェリヤを補い、沙翁記念劇場はいつも通り蓋を明けた。
が、前夜の惨劇が好奇心を唆ったものか、その夜は補助椅子までも、出し切った程の大入りだった。然し、オフェリヤ殺し場は、遂に差し止められて、あの無残な夢を新たにしようとした、観客を失望させた。
法水は演技の進行中も、絶えず俳優の動作に注意を配っていたが、恰度四幕目が終って休憩に入ると、何んと思ったか、暁子と孔雀を自分の室に招いた。
「僕はとうとう、一つの結論に達しましたよ。と云うのは、あの当時、風間は奈落には居りませんでした。実は舞台の前方――隠伏奏楽所《ヒッヅン・オーケストラ》の中に潜んでいたのです」
と冒頭吐かれた言葉には、女二人のみならず、検事も熊城も驚かされてしまった。熊城は透さず抗議した。
「冗
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