」]その劇場は、バイロイト歌劇《オペラ》座そっくりな姿を現わすに至った。
 もちろん舞台の額縁《プロセニアム》は、オペラ風のただ広いものとなった。また、その下には、隠伏奏楽所《ヒッヅン・オーケストラ》さえ設けられて、観客席も、列柱に囲まれた地紙形の桟敷《さじき》になってしまった。これでは、如何にしようとて、沙翁劇が完全に演出されよう道理はない。九十郎は一切の希望が、その瞬間に絶たれてしまったのを知った。
 しかも、それと同時に、彼を悲憤の鬼と化してしまうような、出来事が起った。と云うのは、一座が九十郎を捨てて、一人残らず劇場側に走ってしまったからである。
 恐らくその俸給の額は、絶えず生計の不安に怯え続け、安定を得ない座員の眼を、眩《くら》ますに充分なものだったであろう。わけても、妻の暁子から娘の幡江、孔雀までが彼を見捨てたのであるから、ついに九十郎は、一夜離反者を前にして、激越極まる告別の辞を吐いた。そして、その足で、何処ともなく姿を晦《くら》ましてしまった――と云うのが、恰度二月ほどまえ、三月十七日の夜のことだったのである。
 それなり、バルザックに似た巨躯は、地上から消失してしま
前へ 次へ
全66ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング