ホが分らなくなって行って、遂に消え失せる。そして、その脣が一寸触れたかと思うと、再び分れる。然し、気のせいか、どうも、眼球が少し突き出ているようじゃないかね。たしかにこれは、云い表わし難い言葉の幽霊だよ。この事件の幽霊は、淡路の一人二役にもなければ、柱の震動でもない。僕は、この一点にあると思うのだ」
と白い皮膚の上の脈管を、しげしげと見入りながら、法水はまるで、詩のような言葉を吐いた。
突如起った惨劇のために、その日の演技はそれなり中止されて、人気のない、ガランとした舞台に立っているのは、この三人きりであった。
幡江の全身には、この世ならぬ蒼白さが拡がっていた。手足をダラリと臥《ね》かして、その顔には恐怖も苦痛の影もなく、陰影の深い所は、殆ど鉛色に近かった。そして、脣は緩かな弓を張りそれには無限の悲しみが湛えられていた。
右の頸筋《くびすじ》深く、頸動脈を切断した切り創《きず》は、余程鋭利な刃物で切ったと見えて、鋭い縁をそのまま、パクリと口を開いている。そしてそこには、凝結した血が、深い溜りを作っていて、緞帳の余映で、滲み出た脂肪が金色に輝き、素馨花《ジャスミン》の冠が薄っすら
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