であろうか。
 私は、水戸市の近くを流れる那珂川へ上流から下ってきた鮭の子も、野州鬼怒川で生まれたものも、福島県の鮫川に産したものも食べてみたが、鏑川で生まれた鮭の子の方が姿が優れ、味が細やかである。
 わが故郷に、四季かけて、いずれの折りにも珍餐の産するを、まことに心豊かに思う。
 日本の国々、どこへ行ってもお国自慢の鮎が棲んでいる。九州でも四国でも、かみ方にも、出羽奥州にも、北陸でも東海道でも、おのれが生まれた国の鮎が、最もおいしく姿が立派であると、誰でも自慢する。
 殊に、おのれが生まれて育った村の近くを流れる川で漁《と》れた鮎を絶品なりと主張するのが慣わしである。それは一応尤もな話であり、またそれは、広く世間を知らぬ独りよがりの話でもあると思う。
 おのれの近くを流れる川で漁れた鮎は、新鮮である。二十里、三十里と他国から運び来った鮮度の低い鮎に比べ、どんなにおのれの村で漁った鮎の味が勝っているか知れないのだ。それは、どこの里へ行ったところで、同じ訳合いだ。
 しかし、広く日本全国を旅してみると、気品の高い香味豊かな鮎を産する川と、でない川とを知るのである。四国の那賀川や吉野川、九州の美々川や五ヶ瀬川などに産する鮎は、全国においても絶品なりと推賞しても誤りないが、房総半島の養老川や夷隅川、小田原の酒匂川などの鮎は、人の味覚に勧められない。
 奥多摩川に産する鮎は東日本随一の味を持っていると、江戸っ児は自慢したものである。ところが、東京に大規模な上水道が完成して以来、多摩川の水質は亡びてしまい、鮎の質も変わったのであるが、それを知らないで、今でも多摩川の鮎を、絶讃している東京人がある。これは言い伝えばかり信じて本質を極めぬからであろう。
 利根川の鮎にも、それと同じところがある。こんど、私は故郷へ帰り住んで、この六月一日から村の地先の利根川で漁れた若鮎を味わったが、ほんとうに香気の薄くなったのに、びっくりした。昔の趣を失っていた。
 大正十五年、利根郡川田村岩本地先に、関東水力電気会社の大堰堤が竣成する前までの、利根川の鮎は、姿といい、香気といい、味といい、まことに立派なものであったのである。九州や、四国の谷川に産する鮎に勝るとも劣らなかった。
 とりわけ、利根郡の後閑地先の月夜野橋の上下まで達した利根本流の鮎、また吹割の滝近くまで遡った鮎は、胴が筒のように丸く、背の鱗を濃藍色に彩って、脂肪厚く香気漲って、美味の極致を尽くしていたものである。大きさ一尺に達し、魚函のなかを泳ぐ姿が、素晴らしい。
 味の立派な、正しい姿の鮎が棲むというのは、流れが激しい上にそのあたりの岩の質が秀れているからである。日向国の鮎がおいしいのは、その国に古生層が押しひろがっているからである。古生層の岩から滴り落ちる水には、鮎の好む上等の水垢が育つのである。
 わが片品川の上流にも、広くはないが古生層がある。その上は、激端の連続だ、鼻高々と自慢しても、決して恥ずかしからぬ鮎の棲むわけであると思う。
 そんな次第で、数は少なく形も小さいけれど、神流川や鏑川へ遡り込んだ鮎も、甚だ香気が高い。やはり、この二つの川の上流は、秩父古生層に掩われているからだ。
 であるのに、大正十五年以来、利根川の鮎は川田村から上流へは遡らぬようになった。下流の渋川方面には時局のおかげで、いろいろの工場が設立されて毒水を流す。白根山の悪水は年々、濃度が高くなる。
 ああ、利根の鮎はついに、亡びるのであろうか。
 昭和七年であったか八年であったか、白根火山が、大噴火した直後、十二月一日、友人五、六人と共に、草津から雪を踏んで頂上の大きな火口を覗いたことがあった。
 白根山は、噴火と同時に、どんな位の毒を火口から吐きだしたかを調査するのが目的であったが、科学者でない私達に、そんなことがわかろう筈がなかった。しかし案内の話によると渋峠から東南によったところ、ものの貝池の北に寄った方面に積もった火山灰には夥《おびただ》しい毒が含まれているそうだ。
 それが、雪解け頃になると雪代水と共に流れだし、下流の魚類を鏖殺《おうさつ》するという話である。草津温泉の上手から流れだす毒水沢には、硫酸そのものといっていいほどの水が流れていて、それが須川に注ぎ、須川は長野原で、吾妻川に注ぐ。
 さらに、それから二、三里上流の西久保には万座川が、火山の悪水で流れを黄色に染めて吾妻川へ注ぎ込んでいるから、吾妻川は西久保から下流は全く生物の棲めない地獄の川となっている。
 これでは、利根本流の鮎をはじめ、いろいろの魚族も、前橋の養鯉の池も、全く堪ったものでない。
 それほど猛毒の持ち主である吾妻川でも、嬬恋村大前の下手あたりから上流には、日本一の山女魚《やまめ》が棲んでいるのである。青く銀色に冴えた肌、体側に、
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