正しく十三個ならんだ紫ぼかしの小判形の斑点、頭のてっぺんにつけた円《つぶ》らかな眼、なんと山女魚は、華艶の服飾と、疎麗な姿の持ち主であろう。
利根川にも山女魚は棲んでいる。しかし、利根本流の山女魚は、胴の肉の厚みに乏しい。また脂肪も少ないだけに、どこか風味に物足らぬ。
ところが、吾妻川の上流である大前、大笹、鹿沢あたりで漁れる山女魚は、頭から尾筒に至るまで、むっちりと肥って、触れれば体温でもありそうだ。舌ざわり細やかな脂肪に富んで、串にさして榾火《ほたび》に当てれば、脂肪が灰に漏れ落ちる。
これは、吾妻川上流の水質が、山女魚の餌である川虫の生育に適し、これを山女魚がふんだんに食べているからであろう。支流の干俣川、地蔵川、熊川にも、姿の美しい味の立派な山女魚がいる。浅間山麓六里ヶ原を流れる地蔵川へ流れ込む小渓流赤川には、山女魚と亜米利加系の紅鱒との稚魚が棲んでいて、この味は、また別趣だ。
塩焼きが最もおいしいという評である。だが私は、二、三日焼き枯らして置いて煮びたしに煮あげるのを絶品といいたい。
蒸し焼きもよい、フライも結構、味噌田楽にも雅味がある。
関西では、四国の吉野川の山女魚が随一であるという。伊予と土佐の山境に吉野川の源流が潺峡《せんきょう》をなしているが、友人がそこで釣った山女魚の濃淡を味あった。けれどやはり私はわが吾妻川の山女魚の味を凌ぐものではないと思った。
煮びたしの一片を口に含むと、舌から鼻に通う山女魚特有の濃淡な風趣、これは、いずれの魚肉にも、いずれの獣肉にもたとうべきものがない。
山女魚の風趣も魔味の一つに数えられると思う。戦局はいよいよ切迫してきた。しかし我々は、あまり神経質となってはいけない。あまりに、焦ってはならぬのだ。
身近の味覚に心を洗い、生命の最後まで、身神共に大いなる余裕を持っていねばならぬであろう。
底本:「『たぬき汁』以後」つり人ノベルズ、つり人社
1993(平成5)年8月20日第1刷発行
※<>で示された編集部注は除きました。
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2006年12月2日作成
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