魔味洗心
佐藤垢石

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)蜂鱒《はちます》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)たきた[#「たきた」に傍点]
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 二、三日前、隣村の嘉平老が、利根川で蜂鱒《はちます》を拾った。鱒を拾うというのは妙な話であるが利根川では珍しいことではない。
 蜂鱒というのは、蜂を食って眼をまわした鱒をいうのである。一体、鱒科の魚は飛んでいる羽虫が大好物であって、利根川の鱒もこの類であるから、蝶でも虻《あぶ》でも蜻蛉《とんぼ》でもかげろうでもおよそ水面に近い空間を飛んでいる虫を見れば水中から躍りだして、一気にそれを、ぱくりと食ってしまう。
 蜻蛉や虻であるならば鱒の腹へ入ると、すぐ死んでしまうであろうけれど、もしそれが蜂であった場合には、簡単にはすまない。そしてそれが熊蜂であったなら、鱒の奴、ひどい目にあうのだ。
 胃袋へ嚥《の》み下《くだ》したところで足長蜂や蜜蜂であったなら、間もなく往生しようが、大きな熊蜂であると、軽くは死なぬ。胃袋のなかで盛んに暴れ回りながら、あの鋭いそして猛毒を含んだ針で滅多矢鱈に胃袋を刺すから、いかに大きな鱒でも堪ったものではないのである。
 忽ち、全身に毒が回って神経が麻痺し、失神状態となり、波に浮きながら上流から下流へ、ふわりふわり流れてきたり、水際へ打ち寄せられてきたところを、人間に拾われる次第になるのであろう。鱒の身にとってみれば、まことに辛き目にあうわけだ。
 さて、嘉平老の拾った蜂鱒は、九百六、七十匁ほどあって、まず一貫目近い大ものである。半死半生の失神状態となって、上新田の雷電河原のしも手へ流れついたのであるから、末だ全く死んでしまっているわけではない。鮮味、実に賞すべきものがあったであろう。
 わが上州には、おいしい産物が数々ある。山の幸、野の幸、水の幸、とりどりである。私は利根川の鱒の味を、わが上州のおいしいもののうちのその司《し》に推したい。
 冷たい潮流に乗って北洋から太平洋岸に沿って下ってきた鱒は、三月中旬には銚子、香取、取手、権現堂、妻沼、本庄裏へと、次第に上流へ上流へと遡ってきた鱒は、既に三月中旬にはわが上新田の雷電神社地先の利根の激流に姿を現わすのである。
 至味の季節は六、七、八、九の四ヵ月で四、五両月にはまだ脂肪が乗ってこぬので、その味は夏の頃に及ばない。また九月が過ぎて十月、十一月になると産卵期に入るので全身の脂肪が腹の生殖線に吸収されて、肉の味が甚だ劣ってくる。
 ところで、夏から初秋へかけての四ヵ月間の鱒の鮮醤《せんしょう》はこれを何にたとえようか。魔味とはこの肉膚を指すのではないかと思う。上品にして細やかな脂肪が全身に乗って淡紅の色目ざむるばかりだ。
 刺身、塩焼き、照り焼き、潮汁、うま煮など。肉を箸につまんで舌端に乗せれば、唾液にとけて、とろとろと咽喉に落ちる。風味、滋味、旨味、いやほんとうに何とも申されぬ。この鮮醤の持つ舌への感覚は魔味と称して絶讃するほかに言葉がないであろう。
 一尾三、四百匁位までの小物は、まだ肉に旨味が乗ってこない。しかし、七、八百匁から一貫五、六百匁ほどに育った大物は、絶品中の絶品である。昔から、啖《くら》えば三年前の古傷が痛むといわれているほどであるから、その味品たるや知るべきである。殊に前橋地方の中流に産するものよりも、渋川町から上流の群馬郡北部から利根郡内にまで遡った鱒は、一層味品が肥えている。
 鱒と共に、推賞に値するものに、利根川の鰍《かじか》がある。鰍は、親族同胞数多く、九州から中国地方へかけただけでも四十種類以上あるから、日本全国調べたなら随分数多い種類に達するであろう。
 北陸地方でごり、京都でどんこ、信州でうばがしら、江州でおこぜ、美濃でびんが、駿河でひとつばね、野州ではぜと呼ぶのも皆同じである。私は、京都では鴨川上流で漁《と》れたどんこの飴煮、金沢ではごりの佃煮、最上の小国川では鰍の煮こごりを食べたが利根川の鰍の味に勝るはなかった。
 形は、鯰やぎぎうに似ているけれど、利根川の鰍は、それほど大きく育たない。相州小田原の近くを流れる酒匂川には、一尺位のごちほども大きい鰍がいるが、これはまことに不味で戴《いただ》けない。この地方では、この鰍を鮎食いとかたきた[#「たきた」に傍点]とか呼んでいる。
 鯰やぎぎうに比べると、鰍は素敵に骨や頭がやわらかで、焼いても煮ても、頭から余すところなく食べられるのである。殊に、寒中が至味の季節である。
 鯉や鮒は、水が冷えれば冷えるほど骨が硬くなる魚だが、鰍は鱒科の魚と同じように、水の温度が低くなるほど、骨がやわらかとなるのである。だから、寒中流れの水際に氷のはる頃が最もおいしい。
 しかし、利根川の鰍は、六月上
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