旬の、未だ山奥から雪代水が流れ下る頃までは、寒中と同じ風味に食べられるのである。と、いうのは利根川の水は、初夏がきても水源地方から雪解水を送り下す間は、摂氏の七、八度から十度内外を上下するほど水温が低いため、寒水と同じ位に冷たいからだ。
 そんなわけで、利根川の鰍は上流地方に棲んでいるものほど、おいしいのだ。利根郡地方で漁《と》れたものと、下流の佐波郡地先で漁れたものを食べ比べると、問題にならぬほど上流のものがおいしい。
 姿は、利根郡内の川田村地先を流れる利根本流の曲ツ滝付近で漁れるのが、最も大きいらしい。そして、早春の頃のこの辺の鰍は、細やかな脂肪が乗っていて、素晴らしい味だ。
 鰍は、三月から六月頃へかけて、まだ川の水温が高まらぬうち、峡流の底の転積する玉石の裏側に産卵する。産卵が終わると、雌雄一対の鰍は、流れの上下に別れて卵を見張り、外敵を防いでいるのである。流れにいる山女魚《やまめ》やはやは、鰍の卵を常食にしているほど好む。だから早春の渓流に山女魚やはやを狙う釣り師は、これを餌に愛用するのである。
 魚類の卵のうちでは、鰍の卵が不味の骨頂であるかもしれぬ。そこで鰍の肉骨は舌の尖端を魅するにも拘わらず、卵の味は鯰の卵に劣らぬほどである。似鯉《にごい》の卵の味と好一対であろう。
 私は、こんど故郷へ帰ってから、殆ど毎日の位、鰍の鮮饌に親しんでいる。友人に、鰍捕りの名人がいて、利根の急流から漁ってきたものを数多く贈ってくれるからだ。
 膾《なます》が、甚だ結構だ。なるべく大形のものを選び、皮と頭と背骨と腸を去り、肉を薄くそいで水で洗い、これを酢味噌で頂戴すると、舌の付け根に痙攣でも起きるのではないかという感を催す。
 一両日焼き枯らして置いた味噌田楽も素敵だ。天ぷらもよい。飴だきに作れば一層結構だ。一盃過ごせよう。
 なんと慈愛に富んだ利根川であろう。われらに、尽くることなき佳饌を贈ってくれるではないか。
 上州人の、ほんの一部にしか知られていないものに、鮭の子の珍味がある。私は子供の頃、鮭といえばあの塩辛い、塩引きばかりと思っていたのに、わが上州にも鮭の子が生まれるのであるから驚いた。
 鮭は、上州で生まれて海へ行き、北洋の寒い水に育って親となり、五、六年後には銚子口から利根川へ遡ってくるのである。それは八月下旬から九月上旬へかけて、鹹水《かんすい》に別れ淡水に志して、かつてわが生まれた故郷へ旅するのである。
 利根川は、佐波郡の芝根村地先で、烏川を合わせる。その烏川が、鮭の故郷であるのだ。銚子口から、[#「、」は底本では「,」]遙々と利根川を遡ってきた鮭の親は、九月中旬には烏川に達する。そして、産卵の準備に取りかかる。鮭の親は、淡水へ入れば、殆ど餌を食わない。
 利根本流は、あまりに水温が低いためであろうか、底石が大き過ぎるためであろうか、鮭は武州本庄裏まで遡りつくと、左へ曲がって烏川の水を慕う。烏川へ入ると、深さ一、二尺位の玉石底に堀を掘って産卵するのであるが、岩鼻村地先まで達した鮭は、そこでさらに左へ曲がり鏑川の水を慕う。
 そんなわけで、鮭の産卵場は多野郡の多胡の碑地先から山名村や森新田地先の鏑川に最も多いのである。産卵の季節は、十月半ばから十一月が盛んである。
 初冬の候、卵から艀った鮭の子は、生まれたあたりで越年して、温かい春の水を迎えるのであるが、四月上旬になると、長さ一寸五分ほどに育つ。
 桜の花が咲き初めるころ、南の暖かい風が吹いて、一雨訪れると鮭の子は、その薄濁りの水に乗って、親が育った北洋の寒い鹹水へ遠く旅するため、生まれた烏川や鏑川に別れを告げるのである。そして、鏑川の鮭の子は烏川へ、烏川から利根川へ出て、次第々々に海へ向かって行くのだ。
 その頃が、鮭の子を釣る絶好の季節である。四月上旬まだ多野郡新町のお菊稲荷の社のあたりで釣れるのは、一寸か一寸五分のほんの可愛い魚であるけれど、もう利根と烏の合流点あたりまで下ったのは、二寸ほどに育ち、さらに利根本流を武州妻沼橋あたりまで下ったのは三、四寸に育って背の肉が丸々と肥えてくる。
 鮭の親の鱗の肌には、美しい鱒科の魚特有の紫紺斑点が消え失せているが、鮭の子の肌には青銀色の鱗に微かに小判形の斑点がうかびでて、鮮麗の彩、まことにかがやかしい。
 一、二寸に育った鮭の子は、軽い味に人の舌を訪《おとな》う。かき揚げの天ぷらが、甚だ結構だ。妻沼橋あたりで釣れる三、四寸に育ったものは、塩焼きがよい。塩蒸しもよい。牛酪で焼いて冷羹《れいこう》をかけて洋箸で切れば、味聖も讃辞を惜しまぬであろう。
 数年前までは、岩鼻村地先で烏川に合流する井野川へも鮭の親が遡り込んで産卵したのであったが、ちかごろはどうしたものか、井野川では鮭の子の姿を見ない。井野川の水質が、変わったの
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