、父の言葉であったのだ。
 わずかに、竿先へ煽《あお》りをくれて軽く鈎《はり》合わせをすると、掛かった。魚は、水の中層を下流へ向かって、逸走の動作に移った。やはり、水鳥の白羽の動きは、はや[#「はや」に傍点]の当たりであったのである。
『帰りましょう』
 と、私ははや[#「はや」に傍点]の口から、鈎をはずしながら答えた。
 赤城山の裾は西へ、榛名山の裾は東へ、そのせばまった峡《はざま》の間に、子持山と小野子山が聳えている。子持山と小野子を結ぶたるみを貫いて高い空に二つの白い山が遠霞を着ているのは、谷川岳と茂倉岳とである。北の方、上越国境の山々はまだ冬の姿であるらしい。
 私は、利根川の崖の坂路を登りながら、はるばると奥山の残雪を眺めた。そして、ぽつぽつと、父の跡を踏んで歩いた。
 雑木林へ差しかかった時、父は、
『これをごらん』
 こう言って私に、楢《なら》の枝を指した。何のことであろうと思って私は、父の指す楢の小枝へ眼をやったのである。楢の枝には、澁皮が綻《ほころ》びたばかりの若芽が、わずかに薄緑の若葉をのぞかせていた。
『この楢の芽を見な。この芽が樺《かば》色の澁皮を落として、天宝
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