い》、水の純度、天候、時間、季節、上流中流下流、他の釣り人が既に釣った後の釣り場であるかどうか、石垢についた鮎の歯跡《はみあと》、気温、瀞か瀬か、瀬頭か引きの光か、落ち込み、白泡の渦巻、石かげ、ザラ場、岩盤、出水前、出水後、瀬脇の釣り場、流心の釣り場、囮鮎の活《い》け方、風の日、雨の日など数え上げれば際限がないほど数多い。さまざまの条件をよく消化総合して、それを渾然《こんぜん》として頭に入れ、理屈にこだわらず、いろいろの場合に対する変化を身につけて鮎と水とに向かわねばならぬのであるけれど、その手ほどきからはじめたのでは、全く釣りにならぬ。
お前は自分を操《あやつり》人形と心得ておれ。[#「。」は底本では「。、」]そして万事、父の指図の通りに竿を操り、からだを動かせ。そこに私心があってはいけない。つまり、父の教えた方法に自分の工夫をまじえてはならぬのだ。無心でおれ。
こう語ってから、私は竿と糸、鈎などの支度を整えてやった。女の子に、長竿は禁物である。四間一尺五寸の竿から、元竿二本を抜き去って三間の長さとした。道糸は、竿の長さよりも七、八寸長くした。
この浅い瀞の釣り場は、私の目測によれば深さ三尺前後であろう。そこで、鼻鐶《はなかん》上方四尺の点に、白い鳥の羽根で作った目印をつけたのである。
囮鮎を鼻鐶につけてから、竿を娘の手に持たせ、竿の角度は自分の腰のあたりから空に向かって四十五度と思うところがよろしい。そして、囮鮎から上方四尺のところの道糸に結んだ目印が常に水面一寸の空間にあるように、竿先の位置に注意せねばならぬ。この釣り場は極めて緩い瀞であるから、錘《おもり》をつけない。この方法であると、道糸に対する水の抵抗の範囲が極めて短く狭いから、囮鮎の負担は軽いのである。であるから、囮鮎は天然自然のまま、川へ放たれたように川底を自由に泳ぎまわるのである。囮鮎が川底を、あちこち泳ぎまわったならば、自由気ままにさせるがよい。引き止めたり制したりしてはいけない。囮鮎を遊ばせる気持ちで、鮎が行くままに上流へなり、下流へなり自分の身体を移して行ける。
しかし、その場合、決して目印の位置水上一寸の場所に変化を与えてはならぬのだ。これさえ忘れなければ、囮鮎は自由に活動して、川鮎は必ずこれに挑戦してくる。そして、お前の囮鮎の尻に装置してある鋭利な鈎に、引っ掛かってしまうであろう。
十
語り終わって、私は娘にこれでよろしいと言った。娘は私の言葉の通りの姿勢を作り、竿を空に向けて四十五度の角度に立て、目印が水上一寸のあたりにひらひらとするよう、竿の位置を定めると、囮鮎は私が予言したように、いったん沖へ向かってのし、それから上流下流へと縦横に泳ぎまわるのである。
私は、娘の背後から、道糸の囮鮎の動くままに曳かれて、水上を前後左右に往きつ戻りつする白い目印の微妙な消息に、深い注目を払っていた。すると、娘が竿を水に突き出してから僅かに二、三分をへたとき、目印の揺曳《ようえい》に異状を認めた。私は、多年の経験によって、瀞場の鮎が囮鮎を追って、ついに掛け鈎にからだのどこかを縫い通されたのを知った。
どうじゃ、竿を持つ手に、いま何となく感覚の変化を感じないか。
と、娘に問うたのである。
そうね。そういえば少し竿先から微妙な変化が伝わってきますね。
娘は、なお懸命に目印の移動に心をとめているのだ。
そうだろう。もう鮎が掛かったのだ。竿先を、さらに一尺ばかり上方へあげてご覧。
竿先が一尺ばかりあがると、果然激しい勢いをもって沖の方へ走りだした。これは、鈎に掛かった鮎が、道糸の緊張に刺戟されて、遁走の行動を開始した表示である。こうなると、もう娘には竿を支えきれない。強く引き戻せば、細い道糸は僅かな、はずみで切れてしまう。やわらかく竿を振れば、竿を持ち去られそうになろう。鮒釣りに数回ほどの経験を持ったのでは、七月の鮎が友釣りの掛け鈎に掛かった場合、到底、その力をあしらいかねるのが当然である。
娘は腕をふるわせ、顔の筋肉を緊張させ、眼をみはり、口でなにか私に訴えようとするのであるけれど、咽《のど》から声が出ない。
私は、娘の手から竿を取った。そして、静かに竿を立て、徐《おもむろ》にあしらいつつ、手許へ引き寄せて、掛かった鮎を手網のなかへ吊るし入れた。長さ七寸あまり、三十五匁はあろうと思う。
瀞場の鮎は、鈎に掛かった瞬間、微少の衝動を目印に感ずるのが、急流の鮎と異なって、鈎に掛かるや否や、男の足でも追いつけないほどの速さで、下流へ[#「下流へ」は底本では「下流で」]走りだしはしない。鈎に掛かった場所から遠方へは走らないで、あたかも鈎の痛さなど知らぬかのように、平然として囮と共に静かに泳いでいるが、ひとたび竿を立てて、道糸に張りをくれると、がばと驚いて騒ぎはじめるものである。そこに、瀞場の友釣りの妙趣を感ずる。
掛け鈎を丁寧に研いで、新しい囮に取り替えてから、再び竿を娘に渡した。やはり娘は、無心の姿で竿の方向は四十五度、目印は水面一寸の場所、この掟を固く守って、水際に立った。またすぐきた。
今度も、私は娘から竿を取って、掛かり鮎を手網に入れた。こうして、僅かに一時間ばかりの間に、立派な鮎を娘は七、八尾掛けたのである。さきほどから、この瀞場で釣っている三、四人の釣り師があった。どうしたものか、その釣り師たちの鈎には一尾も掛からない。この瀞場には、数多い鮎がいる。ということは承知しているのであるけれど、瀞場の友釣りについて、あまり深い造詣を持たぬ人達かも知れない。
その人達は、私ら父娘が、娘が忙しく釣り私が忙しく手網に入れる姿を注目していたが、とうとう三、四人の人々は竿を河原に置いて私らの近くへ集まり砂の上へ腰を降ろしてうずくまり、私ら父娘の釣りを観察しはじめた。
疲れたので、一服していると、人々は私の傍らへきて、そのうちの一人が私に、あなたは垢石さんですかと問うのである。そうであると答えると、そうですか流石《さすが》になあ、娘さんでさえも――と、幾度も感嘆の声を発するのである。感嘆する一人は、どこかの釣り場で一度か二度見かけた顔だ。
十一
昼近くなったので、飯を食べに一旦宿へ引きあげることにした。そこで私は娘に、お前はもう十尾ほど掛けたかも知れない。しかし、きょうはじめて釣った鮎は、お前の経験や腕前で釣ったのではないのはお前も分かっていよう。ところで、経験や腕前もないほんの初心者になぜ瀞場の鮎が盛んに掛かるかということが問題だ。それはつまり、お前は傀儡《かいらい》であるからである。竿を持った人形が、人形使いの意のままに動いて観衆を感動させたということは、人形に人形使いの精神と技術とが乗り移ったからであるといえよう。この瀞場の鮎を釣るのに適した道具立てを持ち、そして父が教えるそのままの技術を踏んで、少しの私心を交えず竿を操ったから鮎が掛かったのである。いわばお前と父とは、個体こそ違え、釣りの意と技に伝える人格が一致したのだ。たとえば、父が自ら釣ったのと同じであったのである。
ところで、父の眼がお前の釣り姿から離れると、不思議に俄然川鮎は囮鮎に挑み掛かってこぬであろう。つまり、釣れぬのである。それは、父の眼が離れるとお前は、自らの心に帰り、自らの釣り姿に帰るためだ。自らの心、自らの釣り姿というのは、お前が友釣りについては真の初心者である正体を指すのだ。友釣りについて、真の初心者にはこの瀞場は一尾も釣れぬ。だが、お前は将来常に父を指導者として、己れの傍らに置くわけにはいくまい。きょうは竿の上げ下げにも、足一歩運ぶにも、やかましくお前の自由を束縛したけれど、これから後はきょうの指導を基礎としてお前の工夫と才覚と思案とをめぐらして、自由に気侭に釣ってみるがよい。
そこでお前の感ずることは、己れ一人の工夫、才覚、思案というものが、どんなに心をちぢに砕かねばならぬ難しい業であるのかを知るであろう。そこで、この友釣りは己の工夫を加えれば加えるほど釣れぬようになるものだ。研究すればするほど、勉強すればするほど釣りの道の深さが身にこたえ、野球の選手が打球に苦心していくうちに、一次スランプに陥《おちい》るのと同じように、友釣りの技もどうにもこうにも自分の力では行なえ得ぬ日がくる。
そして、苦心に苦心を重ねた末、十年か二十年の修行の果てに、お前にめぐってくるものは、きょう父がお前の手を取り心を抑え、教え導いた傀儡の釣り姿である。結局、生まれたときの、無心の姿に帰るのだ。
そこではじめて、友釣りの技がお前の身につくのである。この父の言葉を忘れるなよ。
それは、ひとり釣りの道ばかりではない。人生の路、悉《ことごと》く同じである。芸術でも宗教でも、学問でも商業でも、武道でも政治でも、研鑽《けんさん》と工夫に長い年月苦心を重ね、渡世に骨身を削るのである。世間というものは学校にいるとき夢みたように簡単にはできていない。身を悲観する人もできようし、世を呪う人も現われてこよう。しかし、その鏤刻琢磨《ろうこくたくま》の間に進歩がある。そして、ある年令に達すると、つね日ごろ物に怠らなかった人にのみ、幼きときに我が心に映し受けた師聖の姿が、我が身に戻ってくるのである。
父の友人、小説家井伏鱒二が、文章というものは上達に向かって長年苦労を重ねてきても結局は松尾芭蕉の風韻《ふういん》に帰るのだ。と、いったことがある。釣りも人生も、同じだ。お前は、きょう富士川の水際に立った己れの無心の姿を生涯忘れてはならんぞ。
十二
その年の八月中旬、私は再び娘を友釣りに伴うた。越後の魚野川の釣趣を味あわせたいと思ったからである。
伜の方は、越後国南魚沼郡浦佐村地先の魚野川の釣り場を克明に知りつくしているから、娘の方には北魚沼郡小出を中心とした地方の釣り場に親しませたいと考えた。折りから、伊豆狩野川の釣聖中島伍作翁も来合わせていたので、私と娘と三人で、一週間ばかり楽しくあちこちと釣り歩いた。
最後に、魚野川が信濃川に合流する上手一里ばかりの越後川口町の勇山の簗場《やなば》近くへ娘を連れて行った。この日は、一切娘の釣りに干渉するのをやめて、娘が思うがままに振る舞わせてやろう。しからば、どんなによく友釣りの技がなまやさしいものではないということが分かるであろうと考えた。
中島翁にも、私にもちょいちょいと、数多く掛かる。しかし、指導の拘束から解放された娘には、朝から鈎に殆ど掛からぬといってよいほどの不成績である。ときたま掛かることがあっても、ザラ場の勾配のある瀬では出足が伴わぬ。掛かるたびに囮ぐるみ道糸を切られてしまう。
そこは、川口町から十日町へ通う鉄道の橋のかみ手の瀬であったから、午後は簗場の尻の瀞場へ案内してやった。ここは、富士川の鉄橋のしも手の瀞場の条件によく似ている釣り場である。娘は、富士川のときと同じ竿と道糸と鈎と目印をつけた仕掛けで釣り場に対したが、やはり父の心が娘の持つ竿に通っておらねば、川の鮎はこれを相手にせぬらしい。
でも、懸命に辛抱しているうちに、大物が娘の竿に掛かった。途端に、プツンと道糸が切れ囮鮎と共にどこかへ行ってしまった。娘は、べそを掻いている。
魚野川は、上越国境の茂倉岳から西へ続く谷川岳と万太郎山の裏山の谷間に源を発している。そして、南越後の峡谷を北へ向かって白く流れて二十里、この川口で大きな信濃川に合している。一つの支流ではあるけれど、水量は相模川の厚木地先あたりに比べると、さらに豊かだ。清冽の流水は、最上の小国川に比べてよいと思う。
上流の土樽、中里あたりはまだ渓谷をなしていて、山女魚《やまめ》、岩魚《いわな》の釣りばかりであるが、湯沢温泉まで下ると、寺泊の堰の天然鮎を送ってきて放流している。石打、塩沢と次第に中流に及ぶほど鮎の育ちは大きく、川の幅も広くなるのである。このあたり景観も大きい。頭の上に、上越国境を遮る六千五百尺の中ヶ岳が、屏風《びょうぶ》のように乗りだしていて、それから北方へ八海山、
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