、貰う方は客の行為に対して充分に満足している。であるのに、旅籠料の三倍も四倍もの心づけを置くのは、無計算ということになる。相手の気持ちの寒暖計は、十銭だけで目盛りの頂点に達しているから、それ以上いかに多くの心づけを置いたところで、目盛りが上がるわけがない。かえって、この客は銭勘定を知らぬ人間、銭を粗末にする人間であるとして、卑下の気持ちを起こさせるだけだ。良薬にも過量があるから、効くからといって、無闇《むやみ》に量を多くのんだところで、かえって害になる。なにも、強《し》いて多くの金を払って、相手の気持ちを不純にせんでもよかろうじゃないか。
雨村は、夏の陽《ひ》に真っ黒にやけた顔の眼、口、鼻のあたり、筋肉を揺すって高く笑った。
そんなものかなあ、雨村の説明するところをきいて、無上に感服したのである。
五
その後、森下邸に八月中旬過ぎまで滞在して、あちこちの川や海を釣り歩き、再び京都へ戻って、南紀州の熊野川行を志した。この行には、姪夫妻も加わった。八月上旬に紀勢線が紀州東端の矢の川峠の入口の木の本まで通じたので、六月の旅のときとは違い、楽々と大阪天王寺から一路車中の人となることができた。途中で、勝浦の越の湯に一泊し、翌朝姪夫妻は新宮からプロペラ船に乗って瀞へ行き、私ら親子は新宮の駅前からバスに乗り、五里奥の日足の村へ向かった。
日足の宿では一泊一円五十銭、随分と多くご馳走がある。毎夕おしきせに、麦酒が二本。これは勿論《もちろん》旅籠料のほかだが、今の相場から見れば、ただに等しい。
この村の前の熊野川には、上流にも下流にも連続して立派な釣り場がある。鮎の大きさは七、八寸、一尾二十匁から三十五、六匁ほどに、丸々と肥っているのである。
まことに盛んに、私の竿にも伜の竿にも、大きな鮎が掛かった。
熊野川の鮎は、日足から上流一里の河相まで遡ってくると、左へ志すのは十津川へ、右へ行くのは北山川へ別れてしまうのであるが、十津川筋へ入った鮎は残念ながら風味に乏しいのである。この川の岩質は、鮎の質を立派に育てない。それは、火山岩か火成岩が川敷に押しひろがっているからである。火成岩を基盤とする山々を源とする川の水質は、水成岩の山々を源とする水に比べると、どういうものかその川に育つ鮎は香気が薄い。そして、丸々とは肥えないのである。殊に、脂肪が薄い憾みが多い。
これは、火成岩や火山岩に発する水には、鮎が常食として好む良質の硅藻《けいそう》、藍藻、緑藻などが生まれぬためであろうと思う。
それに引き替え、北山川の水を慕う鮎は、まことに立派な姿と香気とを持っているのである。河相の合流で見れば明らかに区別されるように、十津川の川底の石は灰色に小型で、粗品であるのに、北山川の石は大きく滑らかに、青く白く淡紅に、この川の上流である吉野地方一帯に古成層の岩質が押しひろがっているのに気づくであろう。
また十津川の鮎の腹には小砂が入っているけれど、北山川の鮎の腹には砂がない。やはりこれも、岩質からくる関係であるかも知れぬ。
北山川は、木津呂、下瀞、上瀞をへて次第に上流へ遡るほど、鮎の姿も味も香気も立派になるのである。さらに、三重県東牟婁郡七色方面まで遡れば、鮎は七、八十匁の大きさに育ち、七月の盛季には、背や頭の細かい脂肪がほどよく乗って、塩焼きにも、刺身にも天下の絶品のうちに数えられる。
六
伜も、ちかごろ友釣りのわざがなかなか巧くなった。熊野川では親に負けないほどの成績をあげたのであった。
この子に、はじめて友釣りのわざを教えた場所は、常陸国久慈郡西金の地先を流れる久慈川の中流であった。それから、磐城国植田駅から御斎所街道へ西へ入った鮫川の上流へも伴って行った。駿河の富士川へも、遠州の奥の天龍川へも、伊豆の狩野川へも連れて行って腕をみがかせたのである。越後の南北魚沼郡を流れる魚野川へは二、三年続けて引っ張りだして六日町、五日町、浦佐、小出、堀之内あたりで竿の操作を仕込んだ。
そんなわけであるから、少しは上達するのが当然であろう。
八月末になって、学校の始業に遅れぬよう伜は親を残して、一足さきに矢の川峠を越えて帰京した。私は、それからもゆるゆると熊野川の水に親しんでいたのである。
東牟婁郡は三重県であるが、西牟婁郡は和歌山県である。その郡境を熊野川は、西方の深い山々の間から東に向かって流れ、太平洋に注いでいる。和歌山県側の日足の村から対岸の三重県側にある高い丸い山々と、麓に眠る村々の風景は、まことに静かである。殊に、日の出前に、淡い朝霧が山の中腹から西へ流れる趣は、浮世の姿とは思えない。
新宮へも一泊した。泊まった熊野川の橋の袖鉱泉宿は構えが大きいだけで、まことに不親切であったけれど、新宮の街は道が狭いとはいえ、落ちつきのある親しみ深い空気が流れていた。熊野神社の境内もおごそかである。ここの宮司も、友釣りの大の愛好者で、私の著書の愛読者でもあった。
朝夕の新涼を、肌に快く感ずる頃、日足の熊野川に別れ、遠州の奥西渡の天龍川を指して新宮から木の本、矢の川峠、尾鷲をへて、伊勢の宮川に添いつつ相可口に出たのである。西渡の天龍川で釣ったのは僅かに半日で、翌日から台風に襲われ、天龍の山鮎の大物に接する機会を得なかったのである。天龍の鮎は上等の質とはいえないけれど、形の大きいのと力の強いのでは、飛騨の宮川と並び称されるであろう。
七
娘がいうに、兄さんばかり釣りに伴って私ばかり家に置いていくのは不公平でしょう。と父に苦情を持ち出すのである。
そこで、私は兄妹を伴い巣離れの鮒《ふな》を狙い、水之趣味社の人々と行を共にして、千葉県と茨城県にまたがる水郷地方へ釣遊を試みたことがある。それは、娘が女学校の一、二年の頃であった。それから、千葉県の手賀沼へも二、三回鮒釣りに連れていった。そして、帰り途に草餅や串カツなども釣った。
海釣りにも誘ったが、娘は同意しなかった。伜は、伊豆の網代へも、浦賀の隣の鴨居にも下総の竹岡へも鯛釣りに同行した。そして、観音崎と富津の岬の間に漂う東京湾内の静かな海の底から、鮮麗、眼を欺《あざむ》くばかりに紅い真鯛《まだい》を釣り上げさせたが、どういうものか伜は海釣りに深い興を起こさぬ。
やはり、川釣りの方が面白いという。鮎釣り、山女魚《やまめ》釣り、はや釣りの方に面白味を持つという。寒烈、指の先が落ちさるような正月のある日、茨城県稲藪郡平田の新利根川へ寒鮒釣りに伴ったが、それでも海釣りよりも淡水で、糸と浮木《うき》の揺曳《ようえい》をながめる方が楽しめるという。
海は、伜の性に合わぬのかも知れない。
日ごろ娘は、友釣りを教えてくれとせがんでやまないのである。そこで、昭和十八年の七月、東海道岩淵地先の富士川へ伴って行った。私はこの年の六月中旬、中島伍作氏や宮坂富九氏らと共にやはり岩淵の富士川橋の袂《たもと》の宿に滞在して釣っていたのであるが、富士川の上流に豪雨があって濁ったため、一日興津川へ遊びに行った。
興津川も共に濁ったのではあったけれど、澄み足の早いこの川は、既に笹濁り程度に澄んで、二、三日したら釣れはじまる見込みはついた。しかし試みに竿を下ろしてみようということになり、いずれも小型のやせた鮎を四、五尾ずつ釣った。その帰途、岩淵駅で下車し富士川橋の宿へ帰る道中で、私は大怪我を負った。ちょうど、野間清治の別邸の前である。私は夕闇の東海道を西から東へ歩いて行くと、暗の中から自転車が恐ろしい速力で走ってきて私に衝突した。私は路上へ突き倒されると、横になった私の体躯の上へ、人間が乗ったまま自転車が、もろに倒れ覆うたのである。
倒れると同時に、身体全体に痛みを感じたが、起き上がろうとすると右足が自由にならない。夕暗をすかしてみると、脛《すね》の正面の稜骨《りょうこつ》の右側の間に、嬰児《ようじ》の口よりも、もっと大きな口が開いている。自転車のどこかに付いている金の棒が、やわらかい肉に突きささり、そして掻き割いたらしい。
八
すぐ東京へ帰って医者の治療を受けた。医者は、全治するまで絶対に水に入ってはならぬという。
十日ばかり、東京に辛抱していたけれど、辛抱がならぬ。鮎の姿が、ちらちら眼の前を泳ぎまわって、追っても払っても、敏捷な姿を現わす。
娘を、看護婦代わりにして、医者から貰った膏薬《こうやく》や繃帯を携えて、跛《びっこ》ひきひき富士川へ引き返したのである。全治するまで絶対に水へ入ってはならぬ。と、いった医者の言葉は、私の釣り修業にとって求めても得られぬ天恵の戒律《かいりつ》であると思った。
若いときから長い間、私は足を水に浸《つ》けねば友釣りをたんのうしたような気持ちになれないできた。つまり、川の水に足を浸《ひた》しながら釣ることが、友釣りの欠くべからざる条件ででもあるかのように、無意識に私をそうさせてきた。永い年月の習慣が、私の気持ちを支配してきたのである。
しかし、それではまだ一人前の友釣りには達しておらぬのだ。絶対に足を濡らしてはならぬというそんな偏した規律はないけれど、水に足を濡らさないで釣れる場所でもあったならば、ことさらに流れに足を入れぬでもよかろう。また一歩足を水に入れねば思う壺へ竿先が達し得ぬというのを知りながら足を濡らしてはならぬという掟に囚《とら》われて、無理に丘の石の上に立つのもおかしいものだ。無理のない釣り姿、これが釣りの極意であろう。
ところが、私の友釣りは流れに立ち込まねば気がすまぬ。その場合における必要、不必要などから離れて私は釣り場へ行くと、流れに立ち込む癖がある。それは、はしたなき釣り癖であることを、よく私は反省している。だが、水に向かうと、我れを忘れて水に浸るのである。私は、幾年この悪癖と闘ってきたか知れない。しかし、今もってその癖を正しきに導き得ぬ。
全治するまで絶対に、傷を水に濡らしてはならぬ。この戒めを得たのは、もっけの[#「もっけの」は底本では「もつけの」]幸いである。自分の心で、自分の悪癖を正していけないとすれば、他から与えられた動きのとれぬ条件を用いて、目的を達したらよかろう。ようし、我が輩はこの足の傷が全治するまでの間に、不必要な場合の水浸りの癖を正してみようと考えたのである。
好きな道楽には、医者の戒めを利用か悪用かして、理屈をつけ、自分の田に水を引き、老婆が引き止めるのも顧みないで、娘を供に痛む足を引きながら、またまた富士川へ繰りだしたのであった。
そもそも、私は上州の利根川の上流の激流の畔に育った。利根川は水量が豊かに、勾配が急に、川底に点在する石が大きく、名にし負う天下の急流である。峡谷と淵と河原と、あちこちに交錯して、六間も七間もある長い竿をふるったところで、狙う場所へ囮《おとり》鮎が達せぬ場所が多いのである。であるから、強力の釣り師は六間以上の長竿、非力の者でも四間半から五間もの竿を握り、なおその上に激流の中へ、胸あたりまで立ち込んで釣る慣わしが、利根の上流にはある。それが、人々の慣習になって、立ち込まぬでもよいのに、水へ浸る癖を人々が持つに至ったのだ。
私も、その一人であった。
九
もっぱら、足を濡らさぬ修練を積むことにした。東海道の汽車の鉄橋のしも手に、浅い瀞場がある。深い場所でも、浅い場所でも、瀞場で鮎を掛けるということは、一応の修業をつまぬとうまくは行かぬものだ。
私は、この場所の条件についてはよく心得ており、既に二、三回友釣りを試みて成績をあげているのである。そこで、娘とならんで足を濡らさぬように水際に近い石の上から釣ることにした。
娘は友釣りの竿を持つことはこの日がはじめてである。鮒釣りには数回の心得があるが鮎釣りはこれが入門だ。竿を持たせる前に、友釣りについての心得をさとした。お前は、きょうが入学日だ。鮎の習性や、囮鮎の泳がせ方、竿の長短に対する得失、糸の太さ細さ、錘《おもり》の有る無し、囮鮎の強弱、流れの速さ、水の深さ、底石の大小、水垢の乗り塩梅《あんば
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