佐藤垢石

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)彩《いろどり》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)北山川[#「北山川」は底本では「来た山川」]
−−

   一

 南紀の熊野川で、はじめて鮎の友釣りを試みたのは、昭和十五年の六月初旬であった。そのときは、死んだ釣友の佐藤惣之助と老俳優の上山草人と行を共にしたのである。
 私らは、那智山に詣でた。那智の滝の上の東側の丸い山を掩う新緑は、眼ざめるばかり鮮やかであった。黄、淡緑、薄茶、金茶、青、薄紺など、さまざまの彩《いろどり》に芽を吹いた老木が香り合って、真昼の陽光に照り栄えていたのである。若芽と若葉の放つ、生きた色彩の輝きは人間が作った絵の具の趣にはない。つまり如何《いか》に豊かな腕を持つ画人であっても、新緑が彩《いろど》る活きた弾力は、到底描き得まいと思う。
 瀞《とろ》八丁の両岸の崖に、初夏の微風を喜びあふれる北山川の若葉も、我が眼に沁み入るばかりの彩であった。それが、鏡のように澄んで静かに明るい淵の面に、ひらひらと揺れながら映り動いていた。
 木津呂あたりを流れる北山川[#「北山川」は底本では「来た山川」]の瀬には、激しいながら高い気品があって、プロペラ船の窓からこれを見て私は、この早瀬の底には、さだめし立派な鮎が棲んでいるのであろうと想像したのである。底石は石理《せきり》ある水成岩の転積である。流水は、水晶のように清冽である。右岸の崖にも、左岸の河原にも、峡谷とはいえ、人に険しく迫らぬ風情が、川瀬の気品に現われてくるのであるかも知れぬ。
 私は旅先を急ぐ釣友と別れ、旅館の都合で十津川と北山川と合流して熊野川となる川相から一里下流の、日足へ足をとどめたのである。ここらあたりの風景もひろびろとして快い。
 日足の宿の二階から、熊野川の広い河原が眼の下にある。私は、ここで四、五日の間、心ゆくばかり鮎の友釣りを楽しんだ。六月はじめの解禁早々ではあるけれど、大きな姿の鮎がまことに数多く釣れたのである。
 その年の八月下旬、再びこの[#「再びこの」は底本では「再びのこの」]熊野川の日足を訪れた。

   二

 実は、伜の暑中休暇を利用して、彼に熊野川の大きな鮎を釣らせたいと思ったからである。八月二日の朝、東京を出発した。
 同行者は日本評論社の社長鈴木利貞氏と私と伜の三人である。まず、東海道の金谷駅で支線に乗り替え、家山町を志した。大井川の中流で友釣りを試みるつもりであったのだ。
 ところが、大井川の上流地方、つまり赤石山脈の南面に連日大雷雨が続いたため山崩れが起こり、川は灰白色に濁って釣りの条件がよろしくない。それでも、せっかくここまで訪ねてきたのであるからというので、三人は流れへ竿をかつぎだした。しかし、予想したとおり釣れぬ。三人合わせて僅かに十二、三尾を釣ったのみで、二時間ばかり遊んだ末、宿へ引きあげた。
 鈴木氏が旅の慰めに、上等のウイスキーを一本携えて行った。夕食のとき、二人で差し向かいにその栓を抜くと、そのとき宿の若い亭主が訪ねてきて四方山《よもやま》ばなしをはじめ、あまりお世辞のよい男なのに、一杯さすと彼はこのウイスキーの質を賞めながら盛んにのむ。
 私らは、亭主の口前に釣り込まれて、また一杯また一杯とさしてやると、気がついたときには、四合瓶の大部分を彼にのまれてしまっているのである。彼は私らの室を上機嫌になって辞し去るとき、後刻上等の日本酒を届けると約束したが、待てども待てども彼は約束を実行しなかった。
 翌朝、金谷駅へ引き返し、そこで鈴木氏は別れて東京へ帰った。私と伜の二人は、京都へ向かった。賀茂川の上流の、放流鮎を釣ってみたいと思ったからである。上賀茂にある姪夫妻の家へ足をとどめ、そこから一里半ばかり上流の賀茂川の峡を探ったが、その年は放流鮎僅かに二万尾、既に釣り尽くしたあとで、土地の若い者が一人。小さい瀬の落ち込みで、引っ掛けの立て引きをやっているのを見たばかりである。
 その男が、こうしてやっていれば、釣り残りが一尾や二尾掛かってくるかも知れないと思って、今朝から三時間辛抱していたけれど、今もって一尾も当たりを見ない。多分この川へ放流した全部の鮎が鈎に掛かってしまったのであろうというのである。そして、その男は私と共に河原の石に腰をおろして一服つけながら、数日前吉野の五条から熊野街道を南へ下《くだ》り本宮の近くまで下って、十津川で釣ったところ、素晴らしく数多く釣れた。友釣りではなく、毛鈎の沈み釣りを試みたのであるが、形が甚だ大きかったという。
 姪の家へ二、三日滞在したのち、私らは暑い日の午後、京都を立って神戸へ着いた。四国の土佐に釣友である探偵小説家の森下雨村を訪ねることにしたのである。神戸から夜の船に乗り、室戸岬の鼻を船がまわる頃は、もう太陽が太平洋の波の上へ昇っていた。私は、明治四十五年の初冬、悲しい運命の旅にこの船路を選び、同じ景色を同じ朝の時間に、この船の窓から眺めたが、陸の彩も海の色も、眼に映るいろいろが、心と共に暗かった。
 しかし今度は、既に中等学校の上級生になった伜を伴った楽しい旅である。見るもの、感ずるもの、悉《ことごと》くが明るい。船の窓から見る名勝室戸岬の風景も、三十数年前の昔とは、まるで趣が異なる。殊に立秋後の澄んだ明るい空気を透して、朝靄が岬の波打ち際に白く、またそして淡紅に輝き、南へ南へと続く漁村と松原が、あしたの薄い靄にぬくもっているではないか。
 海雀の群れが、波間に隠見する。かもめが舞う。岬の突端を彩る深緑の樹林は、山稜を伝って次第に高く行くにつれ、果ては黒く山の地肌を染めて、最後には峰の雲に溶け込んでいる。遠い山腹に、金色に輝く一点がある。その一点から発する光線は、稲妻に似て強くまぶしく眼を射るのである。あれは、山村の物持ちの家の縁側の硝子障子に、朝陽が反射するのであろうか。
 なんと静かな、親しみ深い風景であろう。南国の眺めは、旅心に清麗《せいれい》の情を添えてくれるのである。

   三

 午《ひる》すこしまわった頃、汲江の奥の高知の港へ着いた。森下雨村は、数日来坐骨神経痛に悩まされ、臥床しているというので、美しい森下夫人が可愛い十歳ばかりになる坊やと共に、私ら親子を波止場まで迎えにきてくれた。
 雨村の邸は、高知から西方六里の佐川町にある。そこから、わざわざ夫の代わり、親の代わりとして私らを迎えてくれたのである。波止場の改札口に、佐藤垢石様と書いた半紙を、二尺ばかりの棒に吊るして、十歳ばかりになる少年が、あまたの旅人を品定めしているのを私らは行列の後ろの方からながめた。
 雨村の病気は、予想したよりも早く快方に赴いた。佐川町から六、七里離れた仁淀川の中流にある謙井田の集落へ、雨村と私と伜と三人で、竿をかついで行ったのである。ここは、仁淀川の中流というけれど、左右から高い山と険しい崖が迫った峡谷である。流水には、家ほども大きい岩があちこちに点在して、水は激しては崩れ、崩れては泡となり、奔湍《はんたん》に続く奔湍が、川の姿を現わしている。
 川底の玉石はなめらかに、水は清く、流れ速い。そして、ところどころの崖かげには、泡寄りを浮かべて緩やかに渦巻く碧い淵が、清くよどんでいる。この仁淀川は、鮎が大きく育ち、数多く棲むのに絶好の条件を備えていると思う。
 謙井田で、三人は五、六日釣り耽った。はじめて仁淀川を見たときに、立派な流相を持っていると感じた通り、この川には大きな鮎が数多くいた。三人は来る日も来る日も、我れを忘れて水際を歩きまわった。
 ここの宿は、旅館を営業しているのではないが、毎年夏になると遠くからくる釣り人を泊めるのを慣わしとしていた。雨村は、この宿と古いなじみである。宿を去る朝、雨村は勘定してくれといった。すると、宿の主人の六十五、六歳になる律気な婆《ばあ》さんが一日一人四十銭ずつでよろしいと答える。もちろん、朝夕二食に昼の弁当つき、布団《ふとん》つき間代まで含んでいるのだ。
 婆さんの答えをきいて、雨村は当然であるといったような顔をしている。私は、婆さんと雨村の二人の顔を見くらべて、心の中に驚いたのである。
 昭和十五年といえばもう支那事変が起こってから五年目になる。世の中には、そろそろ統制経済だとか、公定相場だとかという言葉をきくようになり、都会では生活物資が次第に少なくなり、物の値いが高くなっていくのに驚いているときである。であるのに、ここの宿料はどうしたことか。
 たとえ、老婆は古い顔知りの雨村のために、特に旅籠《はたご》料を安くして置くとかいう含みが言葉にもなく、表情にもない。また雨村は、平然としてこれを感謝している風もない。

   四

 私は、今から十五、六年前、裏飛騨の吉城郡坂上村巣の内へ、鮎釣りの旅に赴いたことがある。この村の地先は、越中国を流れる神通川の上流である宮川の奔湍《はんたん》が、南から北へ向かって走っていて、昔から一尺に余る大きな鮎を産するので有名である。
 その頃は、まだ富山から高山へ汽車が全通していないので、巣の内は軌道敷地の工事最中であった。ここの宿では、大きな鍋を爐《ろ》にかけて鍋めしを炊いていた。
 ある朝、私は宿の主人に試みに旅籠《はたご》料はいかほどであるかと問うたのである。ところが、主人は恐縮した顔で、なにかお気に召さぬことでもあったのでしょうか。旅籠料は一泊三食金四十銭でありますけれど、それでお高いと思し召すなれば、もっと安値にして置いても結構でありますと答えるのである。それをきいて、私の方では恐縮してしまった。
 いやそんなわけではない。四十銭ではあまりに安値すぎる。そこで、朝夕もう一、二品ご馳走を添えることにして、もっと充分な値段らしい値段を請求するようにして貰いたいというと、主人は承知いたしましたと答えるのである。
 期待の通り、その夜から小皿や汁物などが前夜までより一、二品ずつ多い。朝も生玉子などが添えてある。おいしい。
 二、三日すぎてから私は、宿の主人を呼んで、今度は旅籠料をなんぼ値上げしたかと問うてみた。すると主人は、またも恐縮らしい顔をして、この辺にはこんな高い値段はないのですが、一泊三食四十五銭いただくことにいたしました。はやどうも、お気の毒さまにございますという。
 それから七、八年過ぎて、再びこの謙井田で金四十銭の旅籠料にめぐり会った。
 君、婆さんに充分な心づけをやらないと、四十銭の旅籠料では、まことに相すまんような気持ちがするね。せめて、一人当たり一円くらいの勘定で払って置こうじゃないか。
 私は、婆さんが帳場の方へ受取を書きに去ったあとで、雨村に囁いた。
 よし分かった。だが、それは僕の手加減に任せて置いてくれ。
 雨村はもう、万事承知しているかのようである。
 生の鮎は、佐川町まで持って帰れない。そこで毎日釣った鮎は、塩焼きに焼き大皿に山盛りに盛り上げて、毎夕三人で腹一杯食べた。食べきれないところは、乾物をこしらえ、塩漬けにした。それを風呂敷に包み、荷物に作ってから、雨村は旅籠料を支払った。
 私らは婆さんに、長らく厄介になった挨拶を厚く述べた。ところが婆さんは私らに比べて何倍かの丁寧さで、過分の心づけを頂戴し冥加至極でありますという意味を、繰り返し唱えて、頭を下げるのだ。
 表の路へ出て、山端の角を曲がってから、私は雨村に、婆さんはひどく喜んだらしいが、いったいいかほど心づけを置いたものかね。と問うたのである。雨村はこれに答えて大したことはない。一泊三食四十銭というから、十銭だけ増してやって、一人当たり五十銭宛の勘定にして支払ってやったのさ。
 私は、また驚いたのである。
 君、そんなに驚かんでもよろしいのだよ。君ら東京人の気持ちからすれば、あまり安いのに感激して一泊一円も二円も払いたいところであろうが、それはかえって無意味なことになる。結果がよくない。いったい、ここらあたり僻地では、茶代というものは一人一泊で五銭か十銭にきまっているものだ。それだけで
次へ
全4ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
佐藤 垢石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング