前の手を取り心を抑え、教え導いた傀儡の釣り姿である。結局、生まれたときの、無心の姿に帰るのだ。
 そこではじめて、友釣りの技がお前の身につくのである。この父の言葉を忘れるなよ。
 それは、ひとり釣りの道ばかりではない。人生の路、悉《ことごと》く同じである。芸術でも宗教でも、学問でも商業でも、武道でも政治でも、研鑽《けんさん》と工夫に長い年月苦心を重ね、渡世に骨身を削るのである。世間というものは学校にいるとき夢みたように簡単にはできていない。身を悲観する人もできようし、世を呪う人も現われてこよう。しかし、その鏤刻琢磨《ろうこくたくま》の間に進歩がある。そして、ある年令に達すると、つね日ごろ物に怠らなかった人にのみ、幼きときに我が心に映し受けた師聖の姿が、我が身に戻ってくるのである。
 父の友人、小説家井伏鱒二が、文章というものは上達に向かって長年苦労を重ねてきても結局は松尾芭蕉の風韻《ふういん》に帰るのだ。と、いったことがある。釣りも人生も、同じだ。お前は、きょう富士川の水際に立った己れの無心の姿を生涯忘れてはならんぞ。

   十二

 その年の八月中旬、私は再び娘を友釣りに伴うた。越
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