、貰う方は客の行為に対して充分に満足している。であるのに、旅籠料の三倍も四倍もの心づけを置くのは、無計算ということになる。相手の気持ちの寒暖計は、十銭だけで目盛りの頂点に達しているから、それ以上いかに多くの心づけを置いたところで、目盛りが上がるわけがない。かえって、この客は銭勘定を知らぬ人間、銭を粗末にする人間であるとして、卑下の気持ちを起こさせるだけだ。良薬にも過量があるから、効くからといって、無闇《むやみ》に量を多くのんだところで、かえって害になる。なにも、強《し》いて多くの金を払って、相手の気持ちを不純にせんでもよかろうじゃないか。
 雨村は、夏の陽《ひ》に真っ黒にやけた顔の眼、口、鼻のあたり、筋肉を揺すって高く笑った。
 そんなものかなあ、雨村の説明するところをきいて、無上に感服したのである。

   五

 その後、森下邸に八月中旬過ぎまで滞在して、あちこちの川や海を釣り歩き、再び京都へ戻って、南紀州の熊野川行を志した。この行には、姪夫妻も加わった。八月上旬に紀勢線が紀州東端の矢の川峠の入口の木の本まで通じたので、六月の旅のときとは違い、楽々と大阪天王寺から一路車中の人となる
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