この機会を逸してはと考えた。
『私に友釣りを教えてくれませんか』
と、率直に申し込んだ。
『いままで、石川釣りをやっていたんだが、どうも面白くない』
と、つけ加えたのである。
『お前さんはどこだい?』
『酒匂へきているんですよ。上州の方から』
『ふん。だが、友釣りはむずかしいよ』
老人はようやくこれだけ口をきいたのであるが、お前のような青二才に友釣りなどが、そうたやすく覚えられるものか、といった態度と口吻《こうふん》である。
『どうか、手ほどきして貰いたいと思うんですが』
私も、執拗であった。
『夜、おれの家にきな。教えるから――』
この場で、一通りの説明だけをして貰いたかった私は、この言葉を聞いて癪《しゃく》にさわった。老人の住所を、聞いておこうかと思ったが、止めにした。
けれど、試みに老人が河原に倒して置いた竿を握ってみた。長さは三間あまり、全体の重量が手にこたえるほどの調子で先穂の硬い、二、三十年も使い古したと思われるような、男竹の延べ竿であった。
『竿に、手をかけちゃいけない!』
老人は、咽《のど》から絞り出すような声で私を叱った。そして、ひったくるように私の手から竿を取ったのである。何と憎々しい爺だろう。
私は、黙ってその場を立って、自分の竿のあるところへ行き、道具をかたして堤防の上へ登った。広々として、果てしのない酒匂の河原を望んだ。足柄村の点々とした家を隔てて、久野の山から道了山の方へ、緑の林が続いている。金時山の肩から片側出した富士の頂は、残雪がまだ厚いのであろう、冴えたように白い。遠く眺める明星ヶ岳や、双子山の山肌を包む草むらは、まだ若葉へもえたったばかりであるかも知れない。やわらかい浅緑が、真昼の陽に輝いている。
酒匂の川尻の、砂浜にくだける白い波涛は、快い響きを立てている。東から吹く初夏の風を帆にふくらませて、沖合はるか西の灘へ辷《すべ》って行く船は、真鶴港の石船であろうか。
翌日は、午後から小田原在足柄村多胡の釣り道具屋へ行った。店主に頼んで、友釣りの釣り道具一切をこしらえて貰ったのである。
鼻環《はなかん》は、木綿《もめん》針を長さ八分ほどに切り落とし、真んなかを麻糸で括《くく》った撞木《しゅもく》式。テグスの鈎素《はりす》へ、鈎を麻で結びつけた鈎付け。鈎は袖型であったが、鮎掛け鈎としてはモドリのついた珍しいものであっ
前へ
次へ
全5ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
佐藤 垢石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング