、いろいろの事情が伴ったのであろうが、主なる原因は当時幕府当局が新たに方針を定めた財政上の大緊縮政策によったためであろう。吉宗は、生前遺命して自分の霊を上野の五代廟に合祀させたのであった。その後の各将軍の霊は、芝または上野の廟に合祀され、決して単独の廟を建立せぬようになったのである。そして合祀の墓所には一基ずつの銅製あるいは石造の宝塔を建て、宝塔の前に小さな拝殿を設けたのである。だが、その小拝殿も芝の方には残っているが、上野には現存していない。
徳川累代の霊廟のうち、建築芸術として価値あるものは一代から七代までであって、八代以後は規模が甚だ小さいのである。けれど一番古いところの久能山の家康廟と、改造前の日光廟とはまだ徳川家が興隆の途中にあってなかなか軍事に忙しく、従って財政的基礎も確立せぬ時代に建築したのであるから充分な工費を支出し得なかった。そんな関係で、一体に規模も小さく形容も簡素であったのは無理ならぬ話であった。
日光廟の改造を行なったのは、三代家光であることは既に書いた。けれど、この改造は要するに二代廟の結構を模したに過ぎないのである。そして、余りに増上寺の二代廟へ金をかけ
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