寛永寺境内にある霊廟には四代家綱、五代綱吉、八代吉宗、十代家治、十五代慶喜などが祀ってあるが、廟の建築などは、上野は遠く芝に及ばない。日光は家康と三代家光とだけである。また家康の廟は、江戸城紅葉山にもあったが、これは明治六年の火災で焼失してしまった。

     豊麗な秀忠廟

 家康薨去の時は、最初駿河の久能山に葬り、その後間もなく日光に移したのであったが、いまに残る華麗な建築物は、寛永十三年に至って家光が、初期の建築物を改造したのであった。二代秀忠は増上寺境内へ祀って台徳院と称した。次に三代家光は日光と上野寛永寺に祀ったが、寛永寺の廟は焼失し、残るは日光のものばかりとなったのである。
 四代家綱、五代綱吉の廟は上野へ持って行き、次の五代と七代の廟は芝に造営した。一代から七代までは、芝に置こうが上野に置こうが一代ひと構えとして独立の霊廟を建造経営する慣わしとなっていた。ところが、八代[#「八代」は底本では「八台」]吉宗からこの慣わしを破ってしまったのである。つまり、次から薨去した将軍は、先代の廟に合祀して単に墓標であるところの宝塔ばかりを建てるようになったのであった。
 この原因には
前へ 次へ
全24ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
佐藤 垢石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング