を集めた文昭院である。明治になって宮中に豊明殿を造営する時、その結構様式をこの文昭院に模したほどであったという。
霊廟の建物は、どれも本殿、桐の間、拝殿の三つに区分されてある。霊祭の時、桐の間には将軍、大僧正、三家、三卿のほか座することができなかった。拝殿の畳の上には十万石以上の諸侯が座し、十万石以下の大名は御浜縁という縁先に座して、霊廟を仰ぎ見た。
であるから折りから霊祭の日に雨でも降っていたなら、十万石以下の殿様は雨滴や飛沫でびしょ濡れになった。こんな時には、予め気のきいた家来が霊廟の別当に袖の下を使っておいて、茣蓙《ござ》を当てがって貰ったものであるが、ぼんくらの家来を持った大名は袍衣《ほうい》が肌まで濡れ通った。
十五代様と家達公
明治になってからも徳川家の当主は、歴代の命日には自ら芝の霊廟へ詣でて祭事を営むか代参を差し向けている。
そこで、十五代様在世中は時々十六代家達公と霊廟の桐の間で顔を合わせたものであるそうである。ところがおかしなことに、十五代様が霊前へ先に香をあげて桐の間を退出する時、後から十六代様が入ってきて袖を摺り合っても、二人とも顔をそむけ
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