年まで続き、ついに四代家綱、五代綱吉などの霊を上野寛永寺へ持ってゆく成行《なりゆき》となったのである。
四代も五代も共に、家光の愛妾桂昌院の腹から生まれた。桂昌院というのは、よほど聡明な女性であったらしい。洛外山崎村の八百屋の娘であったという。父の八百屋は、妻を失ったために毎日後方の籠に青物を入れ、片方の籠に女の子を載せて天秤棒を担ぎ、京の街々を呼び売り歩いていた。それを、御所警衛の武士が哀れに見て、女の子を貰い受け育てあげたのが後の桂昌院であった。家光は、この桂昌院が随分気に入っていたと見えて、家綱、綱吉の外に甲府宰相綱重をも生ませた。
四代将軍家綱は何事もなく、この世を去ったのであるが、五代の綱吉は馬鹿殿様であった。俗にいう犬公方がそれである。国法を紊《みだ》すものなりとして、桂昌院は我が子綱吉を殺し、その後自らも害して果てた。文献には、綱吉が薨去した十数日前に桂昌院はこの世を去ったことにしてあるが、ほんとうは桂昌院は綱吉を殺した後に自殺したのであった。
六代将軍の家宣は、甲府宰相綱重の子であった。つまり、桂昌院の孫である。この家宣の霊廟が元禄の文化を象徴し、その建築美の精髄
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