女であるから淀君の妹に当たる。であるから豊臣秀吉と秀忠とは義兄弟であった訳になる。
幕府が、霊廟造営を起こし莫大な工費を支出したというのは、諸侯から金をまきあげる政策のためであると伝えられるが、一面、三代将軍家光の祖先を思う念が厚かったのと、建築工事が好きであった上に美術に深い理解を持っていたことが窺い知られる。そして、家光自身は芝へは霊所を置かないで、祖父の傍らへ送ってくれと遺言して死んだのであった。そこで、家光の霊廟は日光へ建立されたのである。上野山寛永寺にも家光の霊廟があったが、これは享保年間の火事で烏有《うゆう》に帰した。
雨に濡れた大名
家光は正腹であり、駿州大納言は妾腹であった。共に、同年同月同日の出生であったから、何れを正嗣にすべきやについて当時徳川家の近親と重臣とは二派に分かれて大いに争った。
春日局は家光を擁し、これを午前中の出生なりと主張して駿府へ乗り込み家康に迫って勝利を博した。当時、増上寺の地続きに金地院という寺があったが、この寺の住職は駿州大納言派で自分の敗北を慨《がい》し、江戸城紅葉山で割腹自殺した事件なども起こった。この縺《もつ》れは後
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