粉れに」]寺内へ忍び込んで手近なものを担ぎ出し、古物屋へ売り飛ばしたのや、小盗の類が贋武士となってやってきたものであると分かった。
 しかし、当時の、物ごとに震えてばかりいた増上寺には、その真相は分からなかった。武士と名のつくものには、腫れものに触るようにして為すがままにした。
 後難を恐れた役僧達は、相談の末数日後、また別当瑞蓮寺から千五百両借りてきた。そして、これを前日の役者が携えて、土方らの宿所を訪れた。
『本日、千五百両だけ都合でき申した。きょうのところはこれで耐えて頂きたい。残る千五百両は、寺の宝物を払っての上持参する考えでご座るから、いましばしのところお待ちを願いたい』
 と、申し入れた。ところが、土方らは増上寺の使者に、
『心にかけて忝《かたじ》けない。だが、軍費は当方において都合ができた。本日のところは、持ち帰って貰おう』
 と、挨拶した。この辺、まことにさばさばとしていて面白い。
 筆者はこのほど、瑞蓮寺に住職絲山氏を尋ねて霊廟物語につきいろいろと話を承った序《ついで》に、土方らが押し入った当時増上寺が瑞蓮寺から借りた三千両と、千五百両の借用証書を見せて貰ったのであるが、幕府時代の別当の金持ちであったのに驚いたのである。それにつけても、増上寺は貧乏したものであった。それというのは、十代、十一代頃から幕府の財政が衰えて、増上寺に対する手当てが充分に行なわれなかったのに、一方霊廟の別当、つまり墓守りの方へは徳川家から直々に祿米手当があった上に、世に知られない余祿が数あったのであろう。
 増上寺の寺境六百余町歩、それが幕府全盛の頃には、大江戸に栄華を極めたに違いない。潔麗絢爛《けつれいじゅんらん》、江戸時代建築技巧の精華を集めた徳川世々の霊廟を中心に、幾千棟の大小伽藍を掩う松杉檜|樅《もみ》の老木が鬱蒼《うっそう》と、東は愛宕町から西は赤羽橋まで昔のままに生い茂っていたならば、東京の一偉観であったであろうと思う。それが今では増上寺の御廟《おたまや》と言っても殆ど知らぬ人が多い。東京市民中で、この江戸芸術の粋を飾った建築美を賞して、地下に眠る旧職人と言われた人々の卓越した腕と心に耽酔した人が幾人あろうか。

     日光と芝と

 それでも、一度増上寺のあの大門をくぐってみると、その豪華なこと、上野の寛永寺とそれを取りまく公園の比ではない。
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