るように言った。
 役者が庫裡の大戸を開けて出ようとすると、そこに見張っていた六、七人の武士が忽として取りまいた。役者は取り巻かれたまま、七代将軍の霊廟有章院別当瑞蓮寺へ行って、まだ明け方の夢がさめない庫裡を叩いた。
 即座に三千両は都合になった。増上寺の庫裡へ戻って土方と万理小路の脚下へ、都合五千両が並べられた。土方が合図をすると、大戸の方からも、厨房の方からも十四、五人の武士が駆け込んできて、五千両の金を何処ともなく運び去ったのである。
 土方晋は、後の土方伯であった。
 翌年の七月、こんどは白昼、土方らは増上寺へ押し込んできた。
『宇都宮戦営の軍費にして、尊王方の勘定方に少々都合がある。たびたびで気の毒に思うが、この度は金三千両だけ用達てくれ』
 役者は前の時の僧であった。ところが、その時の増上寺には一文の蓄えもなかったのである。役者は、また白刃の前に怯《おび》えた。震える声で役者はおそるおそる寺の財政の現状について述懐し、何としても即刻融通をつけるという訳には行かぬ有りさまを詳さに語り、数日の猶予を乞うたのである。たってとの仰せならば、この場へ古物買いを連れてきて、寺の宝物など売り払い、お志の幾分なりとご用達てるより他に途がないと、平伏した。
『さようとあれば、詮方ない。きょうはいらぬ』
 こう言って、土方はあっさり立ち去った。

     淡快な土方晋

 その日は、それで済んだけれども、増上寺では後難を恐れた。
 いまでも行ってみれば、眼のあたり分かる通り、幕末から維新当時にかけて増上寺の境内や数ある徳川霊廟の境内は、匡賊に類した武士や贋武士のために、惨々《さんざん》な掠奪《りゃくだつ》を蒙っている。諸侯が[#「諸侯が」は底本では「諸候が」]寄進した青銅の灯篭を足から持って行ったのもあり、宝珠を片っ端から盗み去ったのもある。甚だしいのになると、銅で葺いた内塀の屋根を、長々と剥ぎ去ったのさえある。灯篭を運び去ったのは幕府の大筒を鋳《い》る原料にするのだと豪語したと言うし、銅の屋根を剥ぎ去ったのは、尊王方の軍費に資するのだ、と台詞《せりふ》を残して逃げたと言うが、これを後になって調べてみると、それは悉く幕府に捧げたのでもなく、尊王に資したものでなかった。それは当時薄祿に食うに困ったご家人や浪人が、騒乱のどさくさ紛れに[#「どさくさ紛れに」は底本では「どさくさ
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