観光にきた仏蘭西の一画家が、東京の都会美には何処《どこ》となく植民地の匂いがある。ところが、芝公園に遊んではじめて東京の姿をみた。と評したことがあった。それは公園の中心に、徳川将軍家歴代の宝廟があったためであるのは勿論である。
日本人であっても日光の霊廟を知って、この霊廟を知らぬ人が普通である。日光には、山水の姿の人を惹きつける景物があるが、芝にはそれがない。まことに残念である。もし、芝に日光だけの天然を持たせたならば、見る人の耽美の情を揺するこの芸術は、日光以上の声価をもって世界に紹介されたであったろうと思う。
江戸時代の権勢と金力と、審美眼とを後世に残したこの増上寺を、徳川家の菩提所《ぼだいしょ》[#ルビの「ぼだいしょ」は底本では「ぼたいしょ」]として定めたのは家康であった。家康が千代田城を政権の府とした頃、半蔵門の近くに観智国師という高僧が庵《いおり》を結んでいた。家康はその徳に帰依《きえ》して、国師に増上寺の造営を嘱したのである。ここを三縁山と唱えて、徳川家累代の霊を祀る地とした。当時の増上寺は境内十八万坪、数十の大建築物棟を並べ、いくつもの学寮を創設し、また関東地方一帯の戸籍の総録所も置いた。これは、いまの戸籍役場の元締めで、つまり司法省の事務まで取り扱わせたのであった。
そして、総本山智恩院に対して増上寺を浄土宗の本山と称え、末寺の数も千を越え、徳川家の菩提所というのであるから、寺としての豪勢、関東に並ぶものはなかった。
上野の、東叡山寛永寺は、天海上人の開基である。天海上人は観智国師の法友で、共に武蔵国の人であった。国師の推薦に与《あずか》って家康は上人を知り、千代田城の鬼門に当たる上野山に寛永寺を建立させ、これを鬼門除けの祈祷所とした。であるから、最初は寛永寺を将軍家の霊所とする考えはなかったのである。
増上寺の現在の本堂は、明治四十三年の建築になったものである。幕府時代からの本堂は、明治六年政府の方針より増上寺に神仏を共に祀った時、神仏|混淆《こんこう》を忌《い》む神官が放火したので烏有《うゆう》に帰し、その後再建したが、これも明治三十年、乞食の焚火によって炎上した。
境内にある将軍の霊廟は二代秀忠、同裏方崇源院[#「崇源院」は底本では「宗源院」]昌譽和興仁清大禅光尼、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂などであって上野
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