散歩しながら書を読み、夜は二階の室にあって瞑想に耽った。
 ところで、下宿の二階から眺めた夜の景色は素晴らしい。なにしろ、紺屋町といえば厩橋城下における花街の中心地だ。絃鼓鉦竹に混じえて、美声流れ来たり流れ去るのである。
 花街に取りまかれ、嬌妓のなまめかしい唄を耳にしようが、笛太鼓の音をきこうが、仙公の佐々木彦三郎は、随分と志操堅固で、なにものにも心を動かさず、はや半年は過ぎた。
 交わるものは、学友ばかりであったのである。ところで、夏ある夜、仙公の佐々木彦三郎は、学友三、四人を集めて、下宿の二階で一盃のんだ。その夜また隣の芸妓屋から、若い妓の美しい声が流れ出て、彦三郎の室へ伝わってきた。学友いずれも耳を傾けたのである。すると一人が、
 なまめかしいが、下品でないな。
 そうだ。だが、音はすれども姿は見えぬというようだな。と、一人が答えた。
 年の頃は十七、八歳というところかね。ところで、声のみきいて姿に接せず、というのが、なにか詩になりそうだね。
 なりそうだ。
 学友一同は、いずれも心にそう思った。誰もが盃を措《お》いて紙と筆を採り、白い紙の面をにらみ込んだ。酒宴が脱線して、運座
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