すべて神が変装して神の国から人間の国へ遊びにきたものと信じているのだ。熊も、狐も、兎もそれぞれの神が、獣のマスクをかぶり変装して、人間の国へ現われ出で、われわれにその肉と皮を贈物としているのだと信じきっている。
だから、神の贈物である獣を殺して食ったところで、神は満足にこそ思し召すが、決して怒るものではない。だから、アイヌは熊を神の化身と思っている。熊を祭ることが、神を祭ることだ。そして神を祭ったあとで熊の肉を煮て食う。これは、神へのお思し召しに添うものだ。
熊祭りのときに、アイヌは神前に一瓶の酒を供える。神は人間を敬う心を褒賞して、やがて一瓶の酒を十倍に増して、返してくれるのだと信じている。アイヌが小熊を愛する姿は、美しいほどだ。だが、山へ熊狩りに出ては、戦慄《せんりつ》に値する勇敢さを示すのである。立ち向かってくる大熊に素手で抱きついて格闘する。ついに熊は自ら舌を噛み切って死ぬ。
ところで、羆はどうかというと、これは油断もすきもならない。元来、羆は人間の肉が好きなのである。月の輪熊は、人間と睨み合ったとき、人間の方が瞳をそらすと、そのすきを狙って一目散に逃げだすが、羆の方はそうではない。遮二無二、人間の肉を食おうとして、あの巨大な掌と爪を、宙に掲げて人に迫ってくる。さすがのアイヌも、あの茶色の羆には恐れをなしているのである。
以上、だいぶ熊について知ったか振りを喋ったが、実は私はいままで一度も羆の肉だけは、食べたことがない。そこで羆はどんな味を持っているものか、と今夜馳せ参じたわけであるという挨拶だ。
次に、五条珠実嬢が立った。白粉を厚くつけているから、歳のところは分からぬが女にしては素晴らしい能弁である。先年、北海道への旅先で小熊に邂逅した件《くだ》りから、金田一博士の指導により、神を敬うアイヌの心境を探ねつつあるわが気持ちを語る条など、ひどく味わいのある話であった。
最後に、アイヌの民謡「鳥になりたや」の一齣を唄ったのである。これは演舞場の公演で唄うのであるそうだけれど、珠実嬢は踊りばかりが専門であると思っていたところ、唄もえらく大したものだ。美声が、ころころと喉から転びだす。一同、ぱちぱちと拍手喝采。おかげさまで、ますますお腹がへってきた。
六
献立表に書いてある前菜の四冷葷が炊白鶏を第一として歯鮑片、五番且、三絲※[#「折/虫」、第4水準2−87−49]と次々に運ばれ、続いて髪菜、広肚、紅焼、魚翅、※[#「火+畏」、第3水準1−87−57]五などが卓上に現われる。それが、一巡してから大皿に盛り出されたのが、「香熊」と銘うつ待ちに待った羆である。
われわれは、献立表に書いてある「香熊」というのを、実は熊掌料理であるまいかと期待していたのだ。熊掌料理は支那の料理書によると豹胎、鯉尾、龍肝、鳳髓鶚炙、酥酪蝉、狸唇の七種を加えて周の八珍と称しているが、その料理法について木下謙次郎は、まず熊掌を温水でよく洗い、次に熱湯で湯がいて表皮を剥ぎ、これを流水にさらすこと三昼夜。かくして磁器のうちに入れ、酒を醋に和して昼夜間断なく蒸熱すること、少なくとも五昼夜に及ぶ。そこで臭気が全然去り、かつやわらかになったならば骨を抜きとり肉を薄くきり、鶏汁、酒、酢、薑《はじかみ》、蒜《にんにく》などを加え、数時間煮燗して最後に塩と醤油で味をつける。以上の次第であるけれども、熊掌料理を仕上げるには少なくとも十日間位を要し、その味は脂肪の固まりに似て旨味ありて、口ざわりよく、かつ軽い苦《にが》み味を持っていると、説いているのである。
「香熊」を一瞥すると、それは長崎料理の角煮に似たものだ。熊肉を煮込んで、それを燐寸《まっち》の小箱ほどの大きさに切り、それに濃い香羹《こうかん》がかけてある。一塊を箸でつまんで舌上に載せたところ、かつて熊掌料理を食べたことはないが、なんとなく口ざわりが、それとは違うようだ。先年、吾妻渓谷の奥で、すき焼きにして食った月の輪熊の土の香もない。
これならば、牛肉のシチューとなんの選ぶところがないではないか、と丸い卓を囲む衆議が一決したのであった。そこで、今回の割烹を司った広東出身の料理人である張伊三を座敷へ呼んで、料理の次第を問うてみた。
張伊三が言うに、お察しの通りこれは熊掌ではありません。羆の脊肉です。元来熊肉料理は肋肉を尤《もっと》もとし、その脂肪潤沢に乗ったところを賞味するのですから、脊肉では至味とは言えません。けれど、料理には遺憾なく腕を揮ったつもりです。まず生肉を蒜薑を刻んだものと、酒と醋に一昼夜漬け込み、そのまま高熱で煮て燗熟させ、土臭を去り、ついで塩と醤油で味をつけ、さらに広東料理特有の香羹をかけたのであります、と言う。
なるほど、その料理はおいしいにはおいしいが、羆という特色は、
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