る場所で渓流を徒渉して対岸へ渡ろうとして、砂の河原へ降り立ったとき、案内人が突然、
「あった」
と、叫んだ。私は、
「なんだ、なんだ」
と、驚いて案内人の傍らへ走り寄ると、案内人が無言で指す砂の上に、大きな獣の足跡が、花弁のように凹んでいる。
「熊だよ」
「いけねえ、いけねえ。僕は、これから奥へ入るのは、もうご免だ」
「大丈夫だよ。この足跡で見ると、熊は五、六時間も前に通り過ぎている。案じねえ」
「ほんとか?」
「大丈夫だろうに――」
そんなわけで、次第次第に叢林を潜り抜け、鬼の押し出し近く、水源の方へ渓流を遡って行った。ところが、三、四百坪ほどある草原へ出たとき、また案内人は、
「あった」
と叫んで踏み止まった。見ると、案内人の脚の先に、獣の青い色した糞の山がある。春がくると渓流の畔に、山|独活《うど》の芽がふくらむのだが、穴から出た熊はこれが大好物で終日食っている。そして、青い糞をたれる。しかし、糞はあちこちと勝手にやるのではない。一定の場所に、山のように溜め糞をする。つまりこれが、その溜め糞だ。
この溜め糞の存在から推測して、熊の住まいは遠くあるまい。一体、この鬼の押し出しという岩は、火石からできていて、なかに縦横無尽に穴が通じてある。いわば、その穴は獣類のアパートみたいなものだ。
熊をはじめ、そして狸、野狐、貉、穴熊など、数知れぬほど棲んでいる。
「きょうの山女魚《やまめ》釣りは、これまで」
仁王さまのように逞しい案内人も、いよいよ観念したらしい。怖じ気がつくと、なんとなく追われるような気持ちがする。
二人は、急いでもときた渓畔を下流の方へ下り、先刻の砂の河原のところへ出て、対岸の芒原の丘を望むと、いた。
四
枯れ芒《すすき》のなかから、背中だけ出していたのであるから、よほどの大物にちがいあるまい。体を東南に向け、首だけ西南へ向けて、凝乎《じっ》と私らをにらんでいる。ところが私らが渓の岸に踏み止まった瞬間、熊のやつ、くるりと体を翻すと同時に一目散に北方に向かって走り出した。人間を見て、逃げだしたのであろう。
それまで知っているが、あとは知らない。気がついたときには、二里も離れた人里近い土橋の上に、二人は蒼白の顔を見合っていた。
私は、あとにもさきにも、こんな恐ろしい目にあったことはないのである。
野州鬼怒川の支流に、男鹿川というのがある。そのまた支流に、湯西川と称する渓流があって、これは会津境の枯木山に水源を持っているのである。水源に近いところに湯西川温泉という岩風呂の景勝までは、よく人のいくところだが、それより一里奥の高手と呼ぶ平家の落ち武者が営んだ部落へは、訪《とぶら》う人が少ない。
三、四年前の四月の末、私は釣友三人と共に、この湯西川渓谷から、富士ヶ崎峠を越えて、奥日光の上呂部渓谷へ降り込む旅に、高手の部落へ足を入れた。
ところが、一軒の樵夫《きこり》の家の軒に、生々しい熊の皮が、赤い肌を陽に向けて、三枚も吊るしてある。私らは、その庭で藁仕事をしている老人に、熊の皮のわけを問うと、これはきのう富士ヶ崎峠の右脇の谷に、穴住まいしていた大熊を三頭一時に撃ち取り、けさ皮を剥いて干したばかりだと答えるのである。
「こりゃ、しまった」
富士ヶ崎峠と言えば、これから我々が越えようとする峠だ。熊の住み家ときいては、恐ろしい。ここで引き帰そうというと、老人はその心配はない。いるだけ取っちまったから、もういない。と、言うのである。
そこで我々は、びくびくもので太郎山に対峙する富士ヶ崎峠を越えたのであるが、一体東京から、さまで遠くない山や渓にも、月の輪熊は豊富なのだ。
けれど、北海道の熊を食うのは、今回がはじめてである。熊料理の、膳の上に現わるる日が待ち遠しい。
五
さて、その日がきた。会場にあてた春日町の支那茶館へ行ってみたのである。
もう、同好の面々が二、三十人集まっている。そのなかに、金田一京助博士と舞踏の五条珠実嬢の顔が見えたのは、異色だ。当日の胆いりである私の友人の説明によると、金田一博士はアイヌと熊の研究にかけては日本一の権威であり、珠実嬢は花柳を五条に改名してから、近くはじめて新橋演舞場で公演するが、その出しものは金田一博士の指導により、アイヌの熊踊りである。だから、この二人は北海道の羆にとって、縁あさからざるものと考え、特に通知して出席を煩わしたと言うのだ。
一同食卓につくと、司会者はまず金田一博士にアイヌと熊について談話を乞うたのである。博士は、女性のようなやさしい謙遜の態度で語りだす。
アイヌの歴史は、熊の歴史であると言っていいほど、アイヌは太古から熊と共に生活してきた。アイヌの信仰は、この世の中の人間の国のほかに、神の国があるとしている。人間以外の動物は
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