香熊
佐藤垢石

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)羆《ひぐま》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)木|鼬《いたち》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)三絲※[#「折/虫」、第4水準2−87−49]
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  一

 このほど、友人が私のところへやってきて、君は釣り人であるから、魚類はふんだんに食っているであろうが、まだ羆《ひぐま》の肉は食ったことはあるまい。もし食ったことがないなら、近くご馳走しようではないかというのだ。
 そうかそれは耳よりな話だ。馬の肉、牛の肉、豚の肉は世間の誰でも食っているから、これは日本人の常食だ。ところで僕は若いときからいかもの[#「いかもの」に傍点]が好きであって、永い年月の間に鹿、狸、狐、猿、鼠、猫、栗鼠《りす》、木|鼬《いたち》、羚羊《かもしか》、犬、鯨、海狸《ビーバー》、熊、穴熊、猪、土竜《もぐら》など、内地の獣類は、いろいろ食べたことがある。だが、不遇にも羆の肉だけは、いまもって食ったことがない。
 獰猛にして巨大、しかも狡猾にして人間の肉と、馬の肉を好むという羆は、一体どんな肉の味を持っているのだろう。早く、食べてみたいものだと友人に答えた。
 こう約束して四、五日過ぎたが、なかなか羆料理ができるから駈けつけろ、という知らせがこない。そこで私は、鳴る咽を押さえながら友人のところへ押しかけて行き、君、羆をいつ捕ってくるのだい。先日の話は嬉しがらせの駄法螺《だぼら》だろう。常識で考えてみても分かるが、あの狂暴な羆がちょいとのことで、君らの手に入らないのは知れている。
 嘘なら嘘と、ここで白状してはどうかと詰めよせると、からからと笑って友人が答えるに、あれは僕が山へ行って撃ち獲ってくるという話ではない。実は、報知新聞社が熊狩隊を組織して北海道へ押し渡り、アイヌの名射手三名に内地人の猛獣狩り専門家二名を加え、それに勢子二十人ほど集めて、苫小牧の奥、楢前山の中腹へ分け入り、今熊狩りの最中だ。四月上旬、吹雪のなかで一頭の黒熊を撃ち止めたという報せがあったから、その肉を送ってくれと電報したところ、それは我々射手と勢子とで、舌鼓をうってしまった。しかし、次に獲れた熊の肉は必ず送るから、しばらく辛抱してくれと、返電があった。
 その翌日だ。長い電報が、苫小牧からきた。第二陣は、白い草原に追い撃ちの策戦にでたところ、とうとう撃ち倒したのが、体重八十貫もある羆だ。北海道は、羆の産地というけれど近年は甚だ姿が少なくなった。だから、今回撃ち止めたのは珍しいことである。その肉を送ったから、賞味してくれというのだ。
 それが、いま北海道から届いたばかりだ。石油箱にぎっしり詰まって一杯ある。君がいかに貪食であっても、これは食い尽くせまい。ところでだ、同好の士を語らい、これを料亭へ持ち込んで、多勢して試食してみようではないか、という豪勢な次第となった。
 そういうわけであったか。何も知らぬこととて悪かった。僕は前言を取り消す。

  二

 いよいよ、羆の肉を小石川春日町のさる支那茶館へ持ち込んだ。
 私は幼いときから熊とは縁が深い。私の父は茶人であって、私がまだ十歳位のころ、秩父山の方から、一頭の子熊を買ってきた。丸々と肥っているが、大きさは子犬ほどしかない。首輪をつけて、庭の木に繋いで置くと無邪気に戯れて、まことに可愛いのである。ところが二、三ヵ月たつと次第に育ってきて、親犬ほどになると時たま野性を発揮して、人を襲う態度を示すので、村中の問題となった。飼主は可愛いから何とも思うまいが、野獣が村内にいるというのは、村民の脅威である。いつ誰に、危害を加えぬものでもあるまい。早く、なんとかして貰いたい、という抗議がでた。
 そこで、父はまことに尤もだと答えて、通りがかりの香具師《やし》に呉れてやってしまったことがあるが、そのとき私は子熊に別れるのがつらさに、涙を流したのを記憶している。
 その後、上州薮塚温泉の背後に連なる広沢山の横穴で捕獲した穴熊の肉を食ったことがある。これは肉がやわらかの上に、脂肪が豊かで甚だおいしかった。このときの料理は、狸汁のように葱《ねぎ》と蒟蒻《こんにゃく》を味噌汁のなかへ刻み込み、共に穴熊の肉を入れて炊いたのだが、海狸《ビーバー》の肉に似ていると思った。
 穴熊というのは、南総里見八犬伝の犬山道節が野州足尾の庚申山で化け猫を退治するとき、猫といっしょにとっちめた山の神のことである。つまりマミだ。国によっては穴熊を貉《むじな》と呼んでいるところもある。
 しかし、ほんとうの熊を食ったのは、つい五、六年前の話だ。私の義弟が、上州吾妻郡嬬恋村大字大
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