沢村の徳蔵牛だ。これは純黒の毛なみ、恰も黒|天鵞絨《びろうど》のように艶々しく光り、背にまたがればつるりと辷りはせぬかと思うほど肌が磨いてある。肩の肉も、尻の肉も、張りきって波打ち、横綱力士の便腹《べんぷく》の如しといいたいが横綱の腹を五つや六つ持ってきたところで、到底及ぶまい。
 意地汚い話だけれど、あの肉塊が一つあったなら、幾十人前のすき焼きができるだろう。時節柄、私は長い間随分肉類に飢えてきているなど、ひとりでに妙な考えが頭に浮かんで、思わず唾液を舌に絡ませた。徳蔵牛は、二百貫を越えているだろう。

  三

 東西から出た飼主に鼻面をとられたまま、順に場内を一巡して、そして最後に場の中央で顔を合わせた。ところで、牛は既に場内へ牽き入れられた時、猛然と闘志を燃やしているのだ。顔を合わせるやその瞬間、丸い大きな両眼を豁《かっ》と開いて、黒い瞳を上険の近くへ吊りあげて、相手を睨《にら》めた。
 その途端に、わが牛の鼻を抑えていた飼主は呼吸をはかって互いに鼻糜《はなげ》を抜いた。鼻糜を抜くや戛然《かつぜん》たる響きが見物席へ伝わった。火を発するのではないかと思った。角と角と力相|搏《う
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