谷三九郎の邸が、明治初年に人から羨望の的となった。山県陸軍卿が御用商人の三谷のこの寮へ行って、堀の小さんと泊まりがけで逢曳《あいびき》したのも当時人の噂に上った。最近まで、報知新聞に伊沢の婆さんという、矢野龍渓、小栗貞夫、三木善八の三代にわたってその俥《くるま》をひいた爺さんの女房が飼い殺しになっていて、山県公の遊び振りや三谷の贅沢振り、今戸の寮に住む人々の風流振りを話したものである。伊沢の婆さんというのは日本橋の小網町の魚仙の娘で、明治五年に十五の年から二十二、三まで、三九郎の妹婿で三谷家総支配人をしていた三谷斧三郎の今戸の寮に奉公していた。
 その頃の寮の人々は、舟に乗って浜町|河岸《かし》まで下《くだ》って行き、人形町で買物をしては帰った。今戸から、浜町あたりへ行くのを江戸へ下ると言った。堀の芸者も、浅草で物を買わないで、人形町まで行った。
 寮の人々は食いものの贅《ぜい》にも飽きた。明治の中年頃までは大川から隅田川では寒中に白魚《しらうお》が漁《と》れた。小さい伝馬舟に絹糸ですいた四つ手網を乗せて行って白魚を掬ったのである。
 この白魚を鰻の筏焼きの串にさして、かげ干しをこしら
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