寛永三年御清の節の食穢《しょくあい》には狸、狼、羚羊《かもしか》を食った人に、五日間の穢《けが》れありとしてあるが今晩は鰊糟《にしんかす》にも劣る小片のみで、狸をたらふく食ったわけではないのだから、祟りのほども少ないであろうと自ら慰めて、不平もいわないで帰宅したのであった。
爾来、狸汁のことについては長い間忘れていたのだが、団栗《どんぐり》のことから狸の身の上に思い及び無用の興を催していたところ、つい最近友人が訪ねてきて、ちかごろに狸の試食会をやろうではないかというのである。
これに対して私は、狸汁はご免だと答えて先年虎の門の料亭で一杯食わされた話をすると、友人が言うにいやそんないかさま狸ではない。正真正銘の狸である。実は、自分の郷里岩代の国の寒村では、近年狸の人工飼養が大分流行している。県農会などでも大いに奨励し、農家も儲かることであるから誰も彼も狸を飼っているのだが、儲け仕事は長く続かず、この一両年の時局柄で毛皮の売れ行きがとんと跡絶《とだ》えた。また飼料の方も値上がりで、この先狸を活かしておけない。それぞれ狸を処分しなければならないのだが、毛皮の方はあきらめるとして、肉の方だけはこの際なんとかなるまいか。東京では、なにかと代用食が流行しているそうだ。狸もその仲間にできまいか。もし狸肉がなにかの代用食になるとすれば、彼氏もまた時節柄バスに乗り込めたことになる。日ごろ睾嚢《こうのう》八畳敷きを誇り大風呂敷をひろげて人を誑《たぶら》かしていた狸公も、いささか国家のために尽くすところの一役を与えられれば幸甚であると、故郷の村からつい二、三日前、手紙があったばかりだ。
ところで、僕ら数名が試食した上、これなら食えると感じたなら、一番この際、狸公を世の中へ出してやろうではないか、と友人は熱心に説明するのであった。
私も、一応なるほどと思ったのである。
四
私が友人の説明に対する考えに、一応という言葉をつけたのには一応理由があるからである。それは、さる頃狐の肉で失敗しているからだ。
初冬の真昼、友人数名と共に銀座の舗道を歩いた。すると、前方から有閑婦人が頗《すこぶ》る高貴な銀狐の毛皮を首にまきつけ、しゃなりしゃなりと漫歩してきた。婦人は素敵な美人であったけれどそれよりも私ら仲間の注目をひいたのは、西欧の王さまたちが即位のとき身に飾る黒貂の毛皮に白金
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