たぬき汁
佐藤垢石

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)浸《ひた》そう

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)小|団栗《どんぐり》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「豸+權のつくり」、第4水準2−89−10]々
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     一

 伊勢へななたび熊野へさんど、という文句があるが、私は今年の夏六月と八月の二度、南紀新宮の奥、瀞八丁の下手を流れる熊野川へ、鮎を訪ねて旅して行った。秋の落ち鮎には、さらにも一度この熊野川へ志し、昭和十五年の竿納めとしようと思っていたところ、心なき台風のために山水押しだし、川底荒れてついに三度目の旅は、あきらめねばならなかった。
 二度目のときの帰り路は、やはり六月のときと同じように、新宮市から木の本へ出て、そこから三時間ばかり省営自動車に乗り、十里あまりの長い矢の川峠(やのこ)を越えて、尾鷲へ下ったのである。矢の川峠は、紀伊と伊勢と大和の三国の境をなす大台ヶ原山を主峯とした台高山脈が南に走って高峯山となり、その裾を熊野灘に浸《ひた》そうとする肩の辺にあってなお標高二千五百尺。随分難路を重ねた高い峠だ。
 大台ヶ原を中心とした深い天然林は、昔から猪の産地で、ここの猪は味において国内随一であるときいていた。これにつぐのが伊豆の天城山、丹波の雲ヶ畑、日向の霧島山あたりで猟《と》れるものであるそうだが、紀州の猪が最も味がよろしいというのは、ここが団栗《どんぐり》林に富んでいるからであると言う。団栗は、楢《なら》の木に実るのが第一に粒が大きく次が椚《くぬぎ》、樫《かし》という順になる。猪は団栗が大好物で、楢の実をふんだんに食った奴こそ、猪肉の至味として人々から珍重されているのである。
 折りから八月の末近く南国とはいいながら、車の窓に輾転する峠の山々にどこか秋の気が忍び寄って、山骨を掩う木の緑の葉も、艶彩のさかりを過ぎていた。やがて、遠からず団栗も色づいて、猪の肉を肥やす季節がくるのであろうなどと、まことにのんきなことを考えながら、峠のてっぺんの茶屋の縁台に梨子を噛って、四方の風景にながめ入った。
 ところが私は、大した事件を発見した。それは矢の川峠を下って、尾鷲駅から汽車に乗るとき買った大
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