てあるのであろうが、それは求め得なかったすっぽんが持つ禀賦《ひんぷ》の野趣が、この羮に匂うのを味わったのである。
主人に説を聞くと、このすっぽんは豊前国|駅館《やっかん》川の産で、煮るとき塩と醤油の他、何の調味料も加えなかったのであるという。むべなるかな、この旨味こそ真に烹調《ほうちょう》の理によって得たのである。と、絶讃をおくることができよう。
それから後、御手洗邸へ豊前国からすっぽんがきた話を聞かなかったのであるが、関西へ旅した時とか、すっぽんの話が出るたびに豊前国のすっぽんを思い出さぬことはなかったのである。
ところへ、このたびの便りである。私は、喉に唾液を嚥《か》みながら、御手洗邸の玄関へ駆け込んだのである。このたびの羮も、往年の味に少しの変わりもない。美漿《びしょう》融然として舌端に蕩《と》け、胃に降ってゆく感覚は、これを何に例えよう。これに誘われ酒の芳醇、吟々として舌根にうったえる。私は、銀色の銚釐《ちろり》を静かに小杯に傾けながら、夫人が語るすっぽんの割烹譚を興深く聞いた。
このすっぽんは、二、三日前、父君重松代議士が郷里豊前国柳ヶ浦から遙々《はるばる》携えてきた
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