私は、眼に映った瞬間、仰天したけれど、咄嗟《とっさ》に一歩退いて、空を仰いでしゃもじを凝視した。
 しゃもじは、私のすぐ前の空を、腕を伸ばせば届くかと思えるほど近く低い宙を、左側の畑から右側の畑へ向かって動きはじめた。柄は、猫の尻っ尾でもあるように、尖端をぶるぶると震わせながら、動いていく。
 私の眼の前の、路の空間をゆるゆると横断して、右側の畑の上に移り、柄で桑樹を撫でる如くに進んで行くのである。
 はっ、と思った瞬間に、しゃもじは跡型もなく消え失せた。後には、遠く星がきらめいているのみ。しゃもじの出現から消失まで、時間にして一分とはたっていまい。その間、私はわれを忘れていた。恐怖も、圧迫も、戦慄《せんりつ》も、なにも感じなかった。
 おそらく、茫然としていたのであろう。
 ところが、しゃもじが中空で跡型もなく消え失せると同時に、私は背中から冷水を浴びせかけられたような感じに襲われた。四肢に至るまで、全身にふるえがきた。頭は貧血を起こしたか、くらくらと眼がまわった。脳天をうたれた如しだ。
 走った。路も田も、畑も堀も、分別なく一目散にわが村へ向かって走った。わが家へ転げこんだのである
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