ん。なさけの道おくれたる婦女共なればさるおふけなき事を祈るならん』
 と、答えた。
 家定の室は、島津斉彬の養女篤姫で、安政三年十一月十一日藩邸から本丸へ入輿《にゅうよ》したのであるが、将軍のからだがこんな訳であるから、篤姫一生の心身は、お察しして見て哀れである。
 桜田門外に邸を持つ彦根城主井伊|直弼《なおすけ》は、安政五年四月二十二日、このような将軍の下に大老となった。井伊の擅政《だんせい》は、これを出発点とする。
 当時、京都に流言が盛んに起こった。
 ――将軍より上奏する所の条約一条、朝廷においてご聴許ない時は、大老らは承久の故事を追い、鳳輦《ほうはい》を海島に遷《うつ》し奉るか、さもなくば主上を伊勢に遷し両宮の祭主となし奉るべし――
 とか、または、
 ――大老は、関白尚忠と同腹にて、主上を仙洞御所に移し奉り、祐宮《さち》を擁立して新帝と仰ぎ奉り、関白をもって摂政となし、幕府の意の如く取り計らうべし――
 とか、さらに、
 ――大老は江戸において、家老以下足軽に至るまで血判を押させ、これを引率して中仙道より西上し、彦根において在国の家老以下に、それぞれ血判を押させて徴発し総勢
前へ 次へ
全17ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
佐藤 垢石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング