まちくら》していたのですから、その年も春が過ぎてからは、その噂《うわさ》ばかりしていました。少し前に帰朝された人に、「年寄たちに様子を話して下さい」とお頼みでしたので、その方が訪ねて下すって、親切にいろいろ話して下さいました。日常生活から、部屋の様子、器具の置場などまでして話して下さるので、どんなだろうか、あんなだろうかと想像をも加えて、果《はて》がありません。
「夜帰って来て、幾階もある階段を昇るのに、長い蝋《ろう》マッチに火を附けて持ちます。それが消える頃には部屋の前に著《つ》きます」と聞いた弟は、細長い棒を持って来て、「これくらいですか」などと尋ねます。
「いいえ、そんなに長くはありません。箱をポケットに入れて、消えれば次のを擦《す》ります。どこでも擦れば附きますから、五分マッチともいいます。」
そうした話を、何んでも珍しく聞くのでした。
祖母は夫が旅で終った遠い昔を忘れないので、「旅に出た人は、その顔を見るまでは安心が出来ませんよ」といわれます。母は、「そんな縁起でもないことを仰しゃって」と、嫌《いや》な顔をなさいますが、心の中では一層心配していられるのです。親戚《しんせき》西氏の近親の林氏は人に知られた方でしたが、洋行された留守宅で、商人を呼寄せて何か拡げさせて興じていた最中に、不幸の電報が届いたとのことで、その話には誰も心を打たれました。ですから、「慎んで待受けねば」という気持が強いのでした。
かねて父の往診用の人力車はあったのですが、兄の帰朝のためにとまた一台新調して、出入の車夫には新しい法被《はっぴ》を作って与えました。帰朝の日には新橋《しんばし》まで迎いに出すという心組《こころぐみ》でした。
ところが兄は、同行の上官石黒氏を始め、その外にも連《つれ》があって、陸軍省から差廻しの馬車ですぐにお役所へ行かれましたので、出迎えは不用になりました。
私は早くから千住の家へ行って待っていました。兄はあちこち廻って帰られたので大分|後《おく》れましたけれども、どこかで連絡があったと見えて、橘井堂《きっせいどう》医院の招牌《かんばん》のあるところから曲って見えた時は、大勢に囲まれてお出《いで》でした。土地がらでしょう、法被を著た人なども後から大勢附いて来ました。そして揃《そろ》って今日の悦《よろこ》びをいうのでした。父がその人たちに挨拶《あいさつ》をします。気の利いた仲働《なかばたらき》が、印《しるし》ばかりの酒を出したようです。家の中では、旧《ふる》い書生たちまで集って来て悦びをいいます。祖母は気丈な人でしたけれど、お辞儀をしただけで、涙ばかり拭《ふ》いて、物はいわれませんかった。私はそれを見て、同じように涙が止りませんでした。父はにこにこして煙草《タバコ》を吸われるだけ、盛《さかん》に話すのは次兄一人です。
やがて私は、家の車で送ってもらって帰りました。その頃|小金井《こがねい》は東片町《ひがしかたまち》に住んでいました。始めは弓町《ゆみちょう》でしたが、家主が、「明地《あきち》があるから」といって建ててくれたのです。弓町では二棟借りていました。国許《くにもと》から母と妹とが来たので狭くなったからです。東片町は畠の中の粗末な普請です。庭先に大工の普請場があって、終日物音が絶えません。新築がつぎつぎに出来るためでしょう。向い側には緒方正規《おがたまさのり》氏が前から住んでいられましたが、そこはお広いようでした。その頃郵便局のあった横町から這入《はい》るので、左へ曲ると行止りになる袋小路《ふくろこうじ》でした。小金井はアイヌ研究のために北海道へ二カ月の旅行をして、この月六日に帰ったばかり、それで十日からは授業を始めますし、卒業試問もあるというのです。その頃はそんな時に試験があったのでした。その準備もせねばならず、北海道からは発掘した荷物が来るのですから、繁忙を極めていました。
その頃の東片町は、夜になると寂しいところでした。私の部屋のある四畳半は客間の続きですが、雨戸なしの硝子《ガラス》戸だけでした。いつか雨続きの頃、主人は会があって不在の晩、静かに本を読んでいる内に夜が更《ふ》けました。ふと気が附くと、窓の前でペタッ、ペタッという音がします。何かしら、と首を傾けても分りません。暫くすると、また音がします。高いところから物の落ちる音ですが、それが柔かに響くのです。気味が悪いけれど、思切って硝子戸を少し開けて、手ランプを出して見ましたら、やっと分りました。それは大きな蝦蟇《がま》が窓の灯を慕って飛上り、体が重いのでまたしても地面に落る音なのでした。蹲《うずくま》ってこちらを見る目が光っています。翌日早速厚い窓掛を拵《こしら》えました。その家は、私どもが引移った後には長岡半太郎《ながおかはんたろう》氏が長く住んでいられました。
話が脇路《わきみち》へ反《そ》れました。兄は帰朝後、新調の車で毎日役所へ通われます。私は閑《ひま》があれば兄を訪いました。私への土産は、駝鳥《だちょう》の羽を赤と黒とに染めたのを、幾本か細いブリキの筒へ入れたのです。御出発なさる時に『湖月抄《こげつしょう》』と本間《ほんけん》の琴とを買っていただきましたから、「もう十分ですのに」とは申しましたが、若い時ですからやはり喜びました。その羽を覚《おぼ》つかない手附《てつき》で帽子に綴《と》じつけなどしました。
そうして九月もいつか二十日ほど過ぎた或日、独逸《ドイツ》の婦人が兄の後を追って来て、築地《つきじ》の精養軒《せいようけん》にいるという話を聞いた時は、どんなに驚いたでしょうか。婦人の名はエリスというのです。次兄がそのことを大学へ知らせに来たので、主人は授業が終るとすぐ様子を聞くために千住へ行ったという知らせがありました。さあ心配でたまりません。無事に帰朝されて、やっと安心したばかりですのに、どんな人なのだろう。まさか詰らない人と知合になどとは思いますけれど、それまで主人の知己の誰彼《だれかれ》が外国から女を連れて帰られて、その扱いに難儀をしていられるのもあるし、残して来た先方への送金に、ひどくお困りなさる方のあることなども聞いていたものですから、それだけ心配になるのでした。
夜更けて帰った主人に、どんな様子かと聞いて見ても、簡単に分るはずがありません。ただ好人物だというのに安心しました。事情も分ったらそれほど無理もいうまいとの話に頼みを懸けたのです。
それから主人は、日ごとというように精養軒通いを始めました。非常に忙しい中を繰合せて行くのです。次兄はまだ学生ですし、語学も不十分です。兄は厳しい人目があります。軍服を著《き》て、役所の帰りに女に逢《あ》いには行かれません。それに較《くら》べると主人は気楽ですから、千住では頼《たよ》りにして、頻《しき》りに縋《すが》られます。父は性質として齷齪《あくせく》なさいません。どうにかなるだろうくらいの様子でしたが、母は痩せるほどの苦労をなさいました。何しろ日本の事情や森家の様子を、納得の行くように、ゆっくり話さねばなりません。かれこれする内に月も変りました。
その頃の主人の日記に、「今日は模様|宜《よろ》し」とか、「今日はむつかし」などと書いてありますのは、エリスとのことでしょう。前にもいったように、北海道で発掘した人骨を詰めた荷物がつぎつぎと著きますので、それらは決して人任せにはせられません。どんな破片でも大切なのですから。但しそれで忙しいのは楽しみらしいのですが、今度のことは、私としては、兄のためというばかりでなく、父母のためにも、いいかえれば家の名誉のためにも尽力してもらいたいと思うのですから、主人の日々の食事にも気を附け、そろそろ寒くなるにつけて、夜は暖かにしてなどと気を配ります。もともと主人は洋行中から名代の病人だったので、ただ養生《ようじょう》一つで持ちこたえていたのでした。私が小金井へ来ました時、「よく評判の病人のところへよこしたなあ」と笑ったくらいです。今度のことは、すらすら運ぶ用事とは違いますから、主人も千住へ行くと、夜更けに車で送ってもらうのです。用談も手間取りますが、そうした中でも未開な北海道の旅行中に幾度も落馬したこと、アイヌ小屋で蚤袋《のみぶくろ》という大きな袋に這入《はい》って寝て睡りかねたこと、前日乗った馬が綱を切って逃げたために、土人と共に遠路をとぼとぼ歩いたことなどを話して、心配中の人々を暫時《ざんじ》でも笑わせなどしました。
日記にはなお賀古《かこ》氏と相談したともしてあります。賀古氏も定めし案じて下すったのでしょう。でも直接その話には関係なさらなかったようです。
十月十七日になって、エリスは帰国することになりました。だんだん周囲の様子も分り、自分の思違えしていたことにも気が附いてあきらめたのでしょう。もともと好人物なのでしたから。その出発については、出来るだけのことをして、土産も持たせ、費用その外の雑事はすべて次兄が奔走しました。前晩から兄と次兄と主人とがエリスと共に横浜に一泊し、翌朝は五時に起き、七時半に艀舟《はしけぶね》で本船ジェネラル・ウェルダーの出帆するのを見送りました。在京は一月足らずでした。
思えばエリスも気の毒な人でした。留学生たちが富豪だなどというのに欺かれて、単身はるばる尋ねて来て、得るところもなくて帰るのは、智慧《ちえ》が足りないといえばそれまでながら、哀れなことと思われます。
後、兄の部屋の棚の上には、緑の繻子《しゅす》で作った立派なハンケチ入れに、MとRとのモノグラムを金糸で鮮かに縫取りしたのが置いてありました。それを見た時、噂にのみ聞いて一目も見なかった、人のよいエリスの面影が私の目に浮びました。
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いさかい
門を静かに開けて、敷石を踏んで玄関にかかると、左は勝手へ行く道、右の荒い四つ目垣の中は花畑ですが、すがれ時《どき》で目に附く花はありません。格子戸《こうしど》の中では女中が掃除をしていました。
ふと早口の甲高《かんだか》い声と、静かな諭《さと》すような声が聞えます。こんなことがあるとは聞いていましたが、今が初耳でした。立って行こうとする女中を、手を振って止めて、「用事があって来たのではないのだから、取次がないで下さい」と小声でいうと、女中も心得たもので、そのままそこにいました。足音を忍ばせて門を出るまで、声はまだ聞えていたようでした。
門前は人通りもあり、車も往来しています。今そんな道を歩く気はしないので、すぐ向いの小路に這入《はい》りました。そこらの屋敷町をうねりうねり行って、薔薇新《ばらしん》の前を通ります。あまり人通りはありません。
歩きながら考えました。何のことか知りませんが、私にはただお兄様がお気の毒でなりませんかった。今日は土曜日ですから、昼前はお役所でしたろう。夜はまたきっと何かの会でしょう。それでなくても、いつも書きものは溜《たま》ってお出《いで》なのですから、大事な時を潰《つぶ》すというばかりでなく、そのお気持の悪さを思いやって、お機嫌の悪い時のお兄様の俯向《うつむ》いた額に見える太い脈を思浮《おもいうか》べるのでした。
がやがやいう子供たちの声を耳にして、気が附きますと、少しの明き地に大勢集って、地面に白墨で何か書いて遊んでいたのを、うっかり踏んでしまったので、「御免なさい」と詫《わ》びました。
吉祥寺《きっしょうじ》の横手の門まで来ると、かなりな家の葬式でもあるのでしょう、今日は開放《あけはな》しになっていて、印半纏《しるしばんてん》の男たちが幾人か立廻っていますし、人込《ひとごみ》を透かして、参道の左右に並べた造花や放鳥らしいものがちらちら見えます。通りへ出ると、表門の前には車が並んで、巡査が交通整理をしているようです。通りを横切って曙町《あけぼのちょう》に這入ります。会葬者らしいのがまだ続いて、寺の門へ向って行きます。左側に大きな材木屋があって、種々の材木が高々と並んでいます。人の噂には、もとこの辺で草取をしていた老婆があって、それが貯
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