て、待乳山《まっちやま》を越して、横手から観音様へ這入《はい》ります。母や祖母と出ると時間もかかりますし、留守居も頼まねばならぬので、たまたまにしか連れて行ってもらわれません。
 たしか尋常小学の三年生の時でしたろう。学校の成績がよくて、首席になったので、私も大喜びでしたし、家内中の誰もが、「よかった、よかった」と褒《ほ》めて下さいました。
 その晩のことです。お母様が、「まあ、お喜びよ。今度の日曜には、兄様が浅草へ連れて行って下さるとさ」とおっしゃいます。
「え、ほんとう。」
 私は目をくりくりさせて驚きましたが、よく聞くと、どういうお考か、行くのは私だけだとのことで、心配になりました。
「お母様も一緒だといいのだけれど」とはいいましたけれど、とにかく嬉しいので、ただその日が待たれました。
 日曜日は四月始めのよく晴れた日でした。
「さあ行こう」と、お兄様は下駄履きで先に立たれます。
「お土産《みやげ》をね」と、祖母様《ばあさま》が目送されます。
 毎日急ぎ足で学校へ通う道をぶらぶら歩いて、牛《うし》の御前《ごぜん》の前を通り、常夜灯のある坂から土手へ上り、土手を下りて川縁へ出ると渡し場です。ちょうど船の出るところでした。
 私は真中にある仕切りに腰を下します。乗合《のりあい》はそんなにありません。兄様は離れたところに立っていられます。中流に出ますと大分揺れるので、兄様と目を見合せて、傍の席を指しますが、首を振って動かれません。
 ここから見る土手は、花にはまだちょっと間があるので、休日でもそんなに人通りがありません。ただ客を待つ腰掛茶屋《こしかけぢゃや》の緋《ひ》の毛氈《もうせん》が木の間にちらつきます。中洲《なかす》といって、葦《あし》だか葭《よし》だかの茂った傍を通ります。そろそろ向岸《むこうぎし》近くなりますと、芥《ごみ》が沢山流れて来ます。岸に著《つ》いて船頭が船を杭《くい》に繋《つな》ぐのを待って、桟橋めいたものを伝わって地面に出ます。
 花川戸は静かな通りですが、どの家にも下駄の鼻緒の束が天井一杯に下げてあります。
「今日は待乳山はよそうね」といわれて頷《うなず》きました。そこは少しの木立と碑とがあるだけで、見晴しもないのですから。
 いつか浅草寺《せんそうじ》の境内で、敷石の辺から数珠屋《じゅずや》が並んでいます。奥の方のは見本でしょうが、拳《こぶし》ほどもある大きな玉を繋いだのが掛けてあり、前の方には幾段かの鐶《かん》に大小の数珠が幾つも並べて下げてあります。その辺まで鳩が下りています。
 お堂へ上る広い階段は、上り下りの人で押合いの混雑で、その中を分けて行くのです。大きな賽銭箱《さいせんばこ》へおひねりを投入れてお辞儀をするのはお祖母様のまねです。気が附くと兄様が見えません。あたりを見廻しましたら、お籤《みくじ》の並びにあるおびんずるの前に立っていられました。いつか字引で見ましたら、それは賓頭盧と書くので、白頭|長眉《ちょうび》の相を有する羅漢とありましたが、大勢の人が撫《な》でるので、ただつるつるとして目も鼻もない、無気味な木像です。それが不似合な涎懸《よだれかけ》をしているのは信者の仕業《しわざ》でしょう。
 高い欄間《らんま》に額が並び、大提灯《おおぢょうちん》の細長いのや丸いのや、それが幾つも下った下を通って裏の階段の方へ廻りましたら、「これから江崎へ行くのだ」とおっしゃいます。
「江崎へ?」
 私が目を見張りますと、「そうだ、お前の写真を撮るのだ。」
 私はびっくりして、口が開かれません。ただとぼとぼと附いて行きました。
 幾分古びた西洋|造《づくり》の家の入口を入りますと、幸いに外に客はありませんかった。
「この子を写して遣《や》ってくれ」とおっしゃいます。
「お兄様は」と聞きますと、「己《おれ》は嫌《いや》だ。」
 いつにないむつかしい顔をなさるのです。どうしようもありません。
 そこらにある写真を見ている中に、助手らしい人が出て、光線の工合を見るのでしょう、高いところの幕を延ばしたり巻いたりします。椅子《いす》の際に立たせて、後頭の辺を器具で押えます。気持の悪いこと。
 そこへ五十|過《すぎ》くらいの洋服の人が出て来ました。主人でしょう。黒い切《きれ》を被《かぶ》って、何かと手間取《てまど》ります。
 やっと終ってそこを出る時、「これから仲見世《なかみせ》だ、何でも買って遣るよ」とおっしゃるけれど、私はむっつりしていました。お母様と一緒だったのなら、きっと泣いたでしょう。何ということなしに窮屈なのです。大事なお兄様が優しくして下さるのに、偏屈な性質だから仕方がありません。
「何が欲しい」といわれても返事が出来ません。何もいらない、といいたいのを我慢していました。それでも仲見世にはいろいろ並んでいるのですから、ちょいちょい立止ります。
「簪《かんざし》かい、玩具《おもちゃ》かい」と、足を止められますので、入らないといっては悪いと気が附いて、小さなお茶道具を一揃い買ってもらいました。
「もっと何か」とおっしゃいます。
「また何か私の読める本でも買っていただきましょう。」
「うん、それもよかろう。今度は皆のお土産だ。」
 雷おこしや紅梅焼《こうばいやき》の大きな包が出来ました。
 雷門から車に乗って帰りましたら、まだ時間は早いのでした。祖母様はにこにこして、「まあ、こんなに沢山お土産を。お前は何を買っていただいたの。」
 そして私の出した包を拡げて見て、「これはこれは、見事なものだね。お雛様のお道具になるね。大事におしよ」とおっしゃいます。
 兄様が傍から、「こいつはほんとにしようのない奴だ。遠慮ばかりして、何も入らないというのだもの」といわれます。
「それで写真はどうだったの」と母が聞かれます。
「写しましたけれど、どんなだか。」
 幾日か過ぎて届いた手札形の写真は、泣出しそうな顔をしていました。
「どうしてこんな顔をしているのだろう」といわれて、「だって私、ひとりで心細かったの。」
 兄はこれを聞いて、「では、己《おれ》のせいだったかな」と笑っていられました。
 その写真が今あったらと、昔がなつかしく忍ばれます。
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   垂氷

 知人が持って来てくれた菖蒲の花を見て、遠い昔|向島《むこうじま》の屋敷の隅にあった菖蒲畑を思出しました。そこは湿地のためか育ちがよくて、すくすくと伸びますので、御節供《おせっく》の檐《のき》に葺《ふ》くといって、近所の人が貰《もら》いに来るのでした。根を抜くと、白い色に赤味を帯びていて、よい香がします。花は白、紫、絞《しぼり》などが咲交《さきまじ》っていて綺麗でした。始めに咲いて凋《しぼ》んだのを取集めると、掌《てのひら》に余るほどあります。畑はかなり広いのでしたから、それを取って染物をするのだなどといって、そこらを汚しては叱《しか》られたものでした。菖蒲じめという料理があります。ほのかな匂《におい》をなつかしむのです。
 菖蒲畑の側にある木戸から、地境《じざかい》にある井戸まで、低い四《よ》つ目垣《めがき》に美男葛《びなんかずら》が冬枯もしないで茂っていました。葉は厚く光っており、夏の末に咲く花は五味子《ごみし》のようで、熟した実は赤黒くて、形は蒸菓子《むしがし》の鹿《か》の子《こ》そっくりです。飯事《ままごと》に遣います。蔓《つる》は皮を剥《む》いて水に浸すと、粘りのある汁が出て、髪を梳《くしけず》るのに用いられるというので美男葛の名があるのでした。一に葛練《くずねり》などともいいました。
 地境の井戸はよい水でした。傍らに百日紅《さるすべり》の大木があって、曲りくねって、上に被《かぶ》さっています。母が洗い物をしていられる時、花を拾ったり、流しから落ちる水に蛙《かえる》がいるので、烟草《タバコ》の粉を貰って来て釣ったりします。花のある間が長いので百日紅といいます。
 裏庭の梅林に小さな稲荷《いなり》の祠《ほこら》のあるのを、次兄が、開けて見たら妙な形の石があったというので、祖母にひどく叱《しか》られました。祖母は信仰も何もないのですが、昔気質《むかしかたぎ》ですから、初午《はつうま》には御供物《おくもつ》をなさいました。先住は質屋の隠居だったといいますから、その頃にはよく祭ったのでしょう。梅の盛りの頃には、花の間から藁《わら》屋根の見えるのがよい風情《ふぜい》でした。軒には太い丸竹の樋《とい》が掛けてありましたが、それも表側だけで、裏手にはありません。その際に高い五葉《ごよう》の松が聳《そび》えていました。私はその太い幹を剥《は》いでは、剥げた皮が何かの形に見えるといって喜んで、それを繰返して遊びました。暫《しばら》くすると、その葉色が悪くなり、弱りが見えて来ました。裏手ですから目立ちませんが、どうしたものかと案じました。父は、これは誰かのいたずららしいと、頻《しき》りに調べていられました。錐《きり》か何かで穴を明けて、鰹節《かつおぶし》などを差込んで置くと、そこから虫が附き始めるというのです。原因は知らず、木はやがて枯れてしまいました。
 五葉の松の近くに裏木戸があって、そこに柳が糸を垂れています。表門の際のほどには大きくありませんが、風が吹くと横ざまに靡《なび》いて、あたりの木を撫《な》でるのでした。木戸を出るとすぐ田圃《たんぼ》です。曳舟通《ひきふねどおり》が向うに見えます。或年長雨で水が出て、隣の鯉屋の池が溢《あふ》れ、小さな鯉や金魚が流れ出たといって、近所の子供たちが大勢寄って来て、騒立《さわぎた》てたことなどもありました。
 正面の庭の奥の、縁からは見えぬあたりに柿の木がありました。何という種類か知りませんが、葉の幅が広く、紅葉すると黄と朱と紅とが混って美しいのです。実は大きくて甘いのですが、喜ぶのは私と次兄とだけでした。家の横手にある無花果《いちじく》とその柿とが私の楽しみで、木蔭に竿《さお》を立てかけて置いて、学校から帰ると、毎日一つずつ落して食べました。鴉《からす》はよく知っていて、色づく頃にはもう来始めます。もっと熟すまで置きたいのですけれど。
 表の方へ廻りますと、冠木門《かぶきもん》まで御影《みかげ》の敷石です。左の方はいろいろの立木があっても、まだ広々していました。後には、ここらが寂しいからと、貸家を二軒立てました。右の方で目立つのは芭蕉《ばしょう》でした。僅《わず》かの間にすくすくと伸び、巻葉が解けて拡《ひろ》がる時はみずみずしくて、心地《ここち》のよいものです。花が咲いて蓮華《れんげ》のような花弁が落ちますと、拾って盃《さかずき》にして遊びました。
 見事なのは門前の柳でした。夏は木蔭が涼しいのですから、よく人が立止っては休んでいました。飴屋《あめや》などは荷を下して、笛を吹いて子供を寄せて、そこで飴細工をするのでした。狸《たぬき》や狐《きつね》などを、上手《じょうず》にひねって造ります。それに赤や青の色を塗り、棒に附けて並べます。大抵の子供は、丸い桶《おけ》に入れてある水飴を、大きく棒に捲《ま》いてもらうのです。色は濃い茶色をしていて、それがなかなか堅くて溶けませんから、子供には長く楽しまれるのでしょう。或時よその年寄が来て、立話をして帰るのを、母が送って出ましたら、門の際の生垣に挿してあった飴の棒を抜いて、しゃぶりながら行ったので呆《あき》れたといわれましたが、そんなに堅いのです。
 家の中は押入が多くて、よく片附いていました。床《とこ》の間《ま》は一間《いっけん》で、壁は根岸《ねぎし》というのです。掛軸は山水などの目立たぬもので、国から持って来たのですから幾らもありません。前には青磁《せいじ》の香炉が据えてあり、隅には払子《ほっす》が下っていました。
 兄が家にいられる時の机の上には、インキ壺、筆、硯《すずり》、画筆に筆洗などがあり、壁際には古い桐の本箱が重ねてありました。折れ曲った所のれんじ窓から、裏庭を越して田圃が見渡されます。遥《はる》か先に五代目|菊五郎《きくごろう》の別荘があると
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