下を往《い》ったり来たりします。歌うもあれば笑うもあり、その賑やかさに、私は目を見張って驚いていました。
 送って来た小母さんが、お母さんに話していました。
「あの水口の檀那《だんな》が、子供たち(娼妓)がどれもどれも赤い衿ばかりで並んでいるのを見ると(張見世《はりみせ》のことをいうのでしょう)、あまり変りがないので面白くないから、皆|浅葱《あさぎ》か藤色にして見ようといっていられましたが、それからさっぱり客が来なくなったそうで、やっぱり赤くなければ人目を惹《ひ》かないと見えるといわれました。今見たらまたもと通りに赤になりましたよ。」
 その家は水口楼というのです。旦那《だんな》というのは学問がしたいといって、お隣の家へ漢学を習いに来るのでしたから、いわば私と同門のわけです。私は『日本外史』などを習っていました。
 小母さんはまたこんな話もしました。
「娼妓が時によると客に出るのを厭《いや》がって、ちっとも売れなくなるそうです。そうすると、遣手《やりて》といいますか、娼妓の監督をする年寄《としより》の女が、意見をしたり責めたり、種々手を尽しても仕方のない時は、離れへ連れ込んで縛《しば》って棒か何かで打つのだそうで、女の泣く声が嗄《か》れがれになる頃、そこに捨てて置いたまま、半日も過ぎた頃に出すのです。娼妓がまだ髪もあげず、泣き腫《は》れた顔も癒《なお》らぬ位なのに、店へ出すとすぐ売れますとさ。不思議ではありませんか。」
 お母さんは、「まあ、むごいことを」といって、眉《まゆ》を顰《しか》めていられます。私は可愛そうだとは思いましたが、絵本で見た中将姫の雪責めなどを幻にえがくのでした。
 この小母さんは独身で、家も小ざっぱりして、奥の間を漢学の先生に貸し、針手が利くので仕立物をして、どこへも立ち入っているのでした。
 或時|手狭《てぜま》な家でお客をする事になったのです。お客はお医者仲間が二、三人、あとはお父《と》うさんがお世話になる、士地での旧家の主人や隠居たちです。父はお世辞のない人ですから、こんな土地の人気《じんき》には合いません。その気性を呑《の》み込んで何かと面倒を見て下さる人たちを、お礼心《れいごころ》に招いたのでしょう。
 その日は患者の方は早じまいにして、テーブル、椅子《いす》、寝台などを書生たちに片付けさせ、掛物をかけ、秘蔵の鉢植を置きましたら、家は見違えるようになりました。奥の二間の襖《ふすま》をはずすと十八畳になり、広々となったのでした。書生たちは遊びに出しました。支度が調《ととの》った頃にはお兄様もお帰りです。料理は、好いという遠くの家からの仕出しです。ただ給仕《きゅうじ》をする女手が足りないのに困りました。
 その頃土地で美しいといわれる芸者が二人いました。小六、小藤といいました。小六は物静かな女でした。「私は先生に見て頂きたいから」といって、ちょいちょい家へ来て、診察順を待つ間に、母ともお馴染《なじみ》になって話すのでした。父はいつも代診をやって、青楼やそんな家へは決してまいりませんから。それが家で客をするのに女手がないと聞いた時、「私がお手伝《てつだい》にまいりましょう。いつも先生のお世話になっているのですから」と申出ました。
 父は笑って、「それは有難う。立派な御馳走ではないが、お酌がよいとお客が喜ぶだろうから」といいました。
 小六は早くから、少し年増《としま》の芸者と十二、三の雛妓《おしゃく》と一緒に来て、お茶を出したりお膳を運んだりするのでした。きっとこの人たちは同じ家にいるのでしょう。お客たちは上機嫌で、「いつも小六さんは美しい」とか、「小六さんのお酌は有難い」とかいいます。多くは小六と雛妓とが踊って、年増が弾いたり、歌ったりするのです。大分お酒が廻ったと見えて、妙な声をして歌うお医者もありました。父はお酒はいけないのですから、隣の席の質屋の隠居の頻《しき》りに盆栽の話をして、折々料理に箸《はし》をつけては、にこにこしていられます。私もそっと出て来て、母の後からその座の様子を見ていました。その内にお兄様は腰を立てて、「甚《はなは》だ失礼ですが、今夜は拠《よんどころ》ない会があって、ちょっと顔を出さねばなりませんから、中座《ちゅうざ》をいたします。どうぞ皆さん『雨しょぼ』でも踊らせてゆっくりお過し下さい。」
 そういってお立ちになりました。車は早くから戸口に待っていたのです。
「若先生のお許《ゆるし》が出たのだから、さあ、さあ、踊ったり、踊ったり」と、もつれる舌でいう人があります。賑やかに三味線が鳴り初めて、雛妓が立上りました。赤い友禅の袖《そで》の長いのを著《き》ていましたが、誰かの黒っぽい羽織を上に引張って手拭《てぬぐい》で頬被《ほおかぶり》をし、遊び人とでもいうつもりでしょう、拳固《げんこ》を懐《ふところ》から覗《のぞ》かせて歩くのです。
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雨はしょぼしょぼ、もみじ番所をすたすた通れば、「八、きのうの女にもてたか」「大《おお》もてよ」。わるい道ではないかいな。
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 ただこれだけの歌ですが、わるい道という所から、裾《すそ》を高々と※[#「塞」の「土」に代えて「衣」、第3水準1−91−84]《たく》って、白い足に続いた白い腹まで出して、ゆるゆると歩き廻るのです。少し鈍い子のようで、恥しそうな顔もしませんのは、たびたび踊らせられるのでしょう。酔った人たちは手を叩《たた》いて囃《はや》すのでした。いくら土地柄とはいえ、なぜこんな踊をさせるのだろう。お兄様もどこかで見て御存じなのかしら、それともこんなお客たちが喜ぶだろうと思って仰しゃったのかしら。私はとつおいつ考えていました。
「おい、小六さんは踊らないのかい」と肩を叩く人があっても、小六は見向きもしませんかった。
 お医者の中に、この土地で唯一人の医学士がありました。敏捷《びんしょう》そうな三十余りの人です。後になって、その人が小六を妻にしました。養子なのでしたが、家附《いえつき》の娘を棄《す》てたのです。その娘は私の学校友達でした。資産のある家でしょう、後にまた養子が来ました。それは優しい一方の人らしく、患者もあるようでしたから、きっと仕合せでしたろう。小六は妻になってから、二、三人子供が出来たらしく、後年私の子供が大学に這入《はい》った時、小六の子供もいるように聞きました。どんなお医者になったでしょう。
 今は都内の劇場が、ストリップショウの看板を掛けて人を呼び、雑誌の口絵にヌードがなければ売れないという時代です。こんなことも遠い遠い昔語りとなりました。
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   海屋の幅

『古書通信』の二月号に出ていた閑人閑語の「オキナのヘコヘコ」という条を見て、思わずほほえみました。貫名海屋《ぬきなかいおく》の「赤壁賦《せきへきのふ》」を訛《なま》ったというのですが、それを読んでまた遠い昔のことを思出しました。
 お兄様がまだ若くて、陸軍へ出られて間もない明治十五年頃でしたろうか、千住の家で書斎にお使いの北向の置床《おきどこ》に、横物《よこもの》の小さい幅《ふく》を懸けて眺めておられました。「流芳」の二字が横書にしてあります。ほかの幅と様子が違うので、訝《いぶ》かし気《げ》に覗《のぞ》きましたら、「これは貫名海屋という人の書で、南画の人だけれど、書にも秀れているのだよ」と教えられたのです。
 こんな話を聴かされますと、私も何だかそれが気に入って、飽かず見詰めるのでした。
 狭い床でしたけれど、そこには時々変った幅が懸けられます。奥原晴湖《おくはらせいこ》の密画の懸けてあったこともあります。晴湖は明治の初めに東京に出て、下谷《したや》に住んで、南画の名手として知られた女の画家でした。佐藤応渠《さとうおうきょ》の半切《はんせつ》もありました。
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むかしたが思ひつくまの神まつり
    よきに似よとの教なるべし
かぐ山の岩戸の桜|匂《にお》ふなり
    神世人の世隔てざるらむ
おかるゝは命ならずやとられつゝ
    時にあふぎの危《あぶな》かりけり
                (扇)
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 かような歌を覚えています。家へ来て沢山書かれたのでした。
 野之口隆正《ののぐちたかまさ》、福羽美静《ふくばびせい》などもあったのは、同郷の先輩のためでしたろう。福羽氏のは仮表具で、私が伺った時に書いて下すったままでした。
 話が外《そ》れましたが、右の海屋の幅は割に長い間掛かっていました。
「これは茶掛《ちゃがけ》によかろうと思うが」と、或る時お兄様がいわれます。
「お兄様も、お茶をお始めになりますの。」
「いや、石黒《いしぐろ》氏がお茶をなさると聞いたから、あげようかと思って。」
 石黒|忠悳《ただのり》氏はその頃の長官でした。茶器は昔から古物を尊び、由緒ある品などは莫大《ばくだい》な価額のように聞きましたのに、氏は新品で低廉の器具ばかりを揃《そろ》えて、庵《あん》の名もそれに因《ちな》んで半円とか附けられたとかいうことでした。きっとそれが気に入って、お贈りする気になったのでしょう。
 お兄様はそれを持って出て、庭にいられたお父様に声を懸けられました。
「お父様、これをいただいて行きますよ。」
「あゝあゝ、持ってお出《いで》なさい。」
 盆栽に見入って、振返りもなさいません。お父様は石州流のお茶をよくなさるけれど、書画には一向趣味をお持にならないのでした。
 お兄様は何と思われたのか、勤めへお出かけに、「今度石黒さんへ行く時、お前も連れて行こうね」とおっしゃいました。そうしたら暫くしてから、ほんとに連れて行かれました。
 お河童《かっぱ》頭に繻子《しゅす》の袴《はかま》、目ばかり光らした可愛げもない子供でした。お兄様のお供をするというのが嬉《うれ》しくて、喜び勇んで出かけたのです。牛込《うしごめ》のお邸《やしき》には黒くて厳《いか》めしい大きな御門がありました。昔の旗本《はたもと》のお屋敷のようです。お座敷へ通っても私はただ後の方に小さくなって、黙って坐っていました。家へ帰ってからお母様に、「薄暗い広いお座敷で、頭の禿《は》げたお年寄が、幅のひどく狭い袴をはいて、芝居の下座《げざ》でつけを打つ男のような恰好《かっこう》をしておられましたよ」と話しました。
 芝居だって猿若座《さるわかざ》を一度か二度しか見ていないのですが、何だか様子が違って見えたのでしょう。
「まあこの子は。人様の噂《うわさ》をするものではありませんよ」と戒められました。
 お兄様は、「黙っていると思ったら、そんな風に見ていたのか」とお笑いになりました。
 その牛込の帰りには長瀬時衡《ながせときひら》氏のお宅へ寄りました。飯田町《いいだまち》辺でしたろう。やはり陸軍の軍医をお勤めで、詩文のお嗜《たしなみ》があり、お兄様とはお話が合うのでした。ここでは気安く種々のお話をなさるし、奥様も歌をおよみになるので、優しく話しかけて下すって、お庭の石灯籠に灯の入るまでゆっくりしておりました。後に奥様は短冊を書いて下さいました。赤十字をおよみになったので、
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仇《あだ》みかたたすけすくひて万代《よろずよ》に
    赤き心を見する文字かな
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 綺麗《きれい》にお書きで、それは近年までありました。
 石黒氏に贈った幅はどうなりましたろう。私を連れて行かれたのは、角立《かどだ》たないようにとのお心遣いだったかも知れません。その日には、それについてのお話はありませんでした。後にはお兄様も、石黒氏と立入ったお附合《つきあい》はなさらなくなったようです。
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   写真

 向島《むこうじま》に住んだ頃は、浅草へ行くというのが何よりの楽しみでしたけれど、歩いて行く時は、水戸様《みとさま》の前から吾妻橋《あずまばし》を渡って、馬道《うまみち》を通って観音様の境内へ入るので、かなりの道なのです。でなければ渡しを渡って花川戸《はなかわど》へ出
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