た。私の家は山の手で地盤が堅いとかいう事で、瓦《かわら》の一部が落ち、壁に破目が出来た位で、さしたる障《さわ》りもありませんでした。団子坂のお家も無事でした。その後お嫂様《ねえさま》にお目にかかった時、「去年御病気の終りの頃、こんな騒《さわぎ》があったなら、どんなにお気の毒な思いをしたでしょう」と、お話した事を思い出します。
翌十三年十月全集の第二巻が出ました時、平野氏の書かれた編纂《へんさん》後記に、
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本書第一巻を出してより一年有半、蒐集《しゅうしゅう》及整理|漸《ようや》く終を告げ、今や本巻|並《ならび》に之《これ》に続くべき第三巻を印刻する運びとなれるは編者の最も喜ぶ所なり。如何《いかん》と言ふに其《その》間に昨年の大震大災あり、我が寓《ぐう》亦《また》その禍を免る能《あた》はず、為に材料一切を挙げて烏有《うゆう》に帰せしめたる事実あればなり。当夜我僅に携へ得たる所の鞄《かばん》一個あり。本書の未《いま》だ整理せられざる切抜の一部と仮目次とを容《い》れたり。乱擾《らんじょう》尚全く平ぐに及ばず、剣戟《けんげき》の声|鏘鏘《そうそう》たる九段坂上《くだんさかうえ》の夜、公余に編輯《へんしゅう》を続行せし当時を思へば感慨未だ尽きず。
本書の編輯に際して、今は世に珍らしきものとなれる小金井家所蔵の『めざまし草』『芸文』及『万年艸《まんねんぐさ》』の完本、並に友人|竹友虎雄《たけともとらお》君所蔵の『しがらみ草紙』の完本を借用し得たることは、如何ばかりか編者の労を軽減したりけん。しかも前者の我蔵本に交りて倶《とも》に焼けしは、我最も憾《うらみ》とする所なり。
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こんなに書いてありますが、それは平野氏の覚え違いで、私のが『しがらみ草紙』なのでした。種々苦心してお集めになったように聞いた蔵書を全部お焼きになったのですから、私のもお相伴《しょうばん》をしたとて愚痴を申すわけにもまいりませんが、それから多くの年月を経た今でも、何か見たいことがあると、平野氏が本を持って門をお出になった後姿を思い出します。
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レクラム料理
兄は食物では新しい野菜を好まれましたが、全体にひどい好き嫌いはないようでした。千住に住んだ頃は、川魚が土地の名産なので、市中からの来客にはいつも鰻《うなぎ》を出しますし、誰もがそれを好みました。そんな時兄も相伴《しょうばん》をなさいますが、「自分には中串《ちゅうぐし》を」と必ずいわれました。あまり好物ではないらしいのです。
牛乳だけはお嫌いのようでした。その頃はまだ手軽にコーヒーも手に入らず、毎朝の出勤前にお飲みになるようにと母がいろいろ苦心をなすって、ブランデーを入れて見たり、砂糖と葡萄酒《ぶどうしゅ》とを入れたりなすってもあまり召上らず、お出かけの跡に色の附いた牛乳が、お机の傍に手附かずにあるのでした。
弁当の握飯《にぎりめし》のことはいつも話に出るのですが、毎朝母がそれを作られるのを見ますと、焚《た》き立《たて》の御飯を手頃の器に取って、ざっと握って皿に置きます。それに味附けした玉子を入れるのですが、その玉子の中に花鰹《はながつお》を入れます。醤油《しょうゆ》ばかりで、砂糖は殆《ほと》んど使いません。玉子はあまり強く炒《い》らずに、前に結んである握飯の間に挟んで結び直します。始めになぜ器に取るかといいますと、熱いのと、一定の量にするためとです。握飯はいつも二つでした。一つには玉子を、今一つにはめそ[#「めそ」に傍点]を入れます。めそ[#「めそ」に傍点]のことは人があまり知らずに、小魚などといいますが、鰻のごく細いのです。それは肴屋《さかなや》でなくて、八百屋《やおや》が持って来ました。開いて串に刺して、白焼《しらやき》にしてあるのを辛味《からみ》に煮て入れますが、いつまでも飽いたといわれませんのは、きっと油濃くないからでしょう。見ている私は浅草海苔《あさくさのり》をざっと焼いて、よいほどに切って、握飯を包むのでした。何かの都合でお弁当が残った日などは、弟が喜んでいただきました。
野菜は夏がよいので、茄子《なす》、隠元《いんげん》など、どちらも好まれますが、殊《こと》に豌豆《えんどう》をお食べになるのが見ものでした。高村光太郎《たかむらこうたろう》氏も、随筆で見ますと、豌豆を好まれるようですが、自炊なさるので、筋を取って塩茹《しおゆ》でにしたのを、油や酢で召上るのだそうです。兄のは少し実の入った方がよいので、筋は全く取りません。取れば実がこぼれますから。それを味よく薄目に煮たのを、壺形《つぼがた》の器に入れて膳《ぜん》に乗せます。その豌豆の茎を撮《つま》んで口に入れ、前歯でしごいて、筋だけを引出します。幾度か繰返して、筋だけを器の端に順よく並べられますのを、松葉のようだと、いったものでした。膳の傍には、いつも濡《ぬ》れた布巾《ふきん》があります。指を拭《ふ》くためです。尤《もっと》もこれは壮年の頃のことで、晩年はどうでしたか知りません。日常の食事の時などは傍にいたことはありませんかったから。
茄子はお好きだったようで、どんなにしたのでも召上りますが、炭火のおこった上に、後先《あとさき》を切って塩を塗ったのを皮のままで置き、気を附けて裏返します。箸《はし》を刺して見て、柔かに通るようになりますと、水を入れて傍に置いた器に取ります。程よく焼けて焦げた皮をそっくり剥《は》ぎ、狐色《きつねいろ》になった中身の雫《しずく》を切って、花鰹《はながつお》をたっぷりかけるのですが、その鰹節《かつおぶし》や醤油《しょうゆ》は上品《じょうぼん》を選ぶのでした。
大きくて見事な茄子のある時は亀《かめ》の甲焼《こうやき》にします。これは巾著《きんちゃく》などというのでは出来ません。まず縦に二つ割にして、中身に縦横|格子形《こうしがた》に筋をつけ、なるべく底を疵附《きずつ》けぬようにして、そこへ好《よ》い油を少し引き、網を乗せた炭火にかけ、煮立ち始めると、蒂《へた》を左の指で持って、箸《はし》で廻りからそろそろ剥《はが》します。皮を破らぬようにするので、割合に早く煮えるものです。そこへ花鰹、醤油、味醂《みりん》などを順々に静かに注いで仕上げます。そっくり皿に取りますが、それを剥しながら食べるのがお好きでした。若い人たちは、お舟だといって皮をも食べます。
全体に食物は、油濃いものの外は、あまり註文《ちゅうもん》をおっしゃらないので、いつでしたか歯が痛むといって、蕎麦掻《そばがき》ばかりを一カ月も続けられたのには皆|呆《あき》れました。
小倉《こくら》在勤中は、田舎の女中ばかりでさぞ食物に困るだろうという母の心配から、註文のままに品物を送るのでした。それは醤油の樽《たる》――田舎は醤油が悪いそうで――とか、鰹節とか、乾海苔とかですが、品物は皆選びました。冬は好物だというので、鴨肉《かもにく》の瓶詰を家で作るのでした。私の主人が聞いて、もっと何かないかね、というのでしたが、人々の嗜好《しこう》ですから仕方がありません。私はよく牛の舌を送りました。薄く切って食べるのです。皮ごと塩で長く煮込むのですから、寒中などはよく持ちます。宅で毎日弁当に入れるものですから、一緒に作ります。いつも礼状はよこされましたが、お好きでしたか、どうですか。母は自分の好物だといって、葉蕃椒《はとうがらし》の佃煮《つくだに》などを送られましたが、きっとその方がよかったでしょう。
漬物もよく上りました。野菜の多い夏が重《おも》です。茄子、胡瓜《きゅうり》の割漬、あの紫色と緑色とのすがすがしさ。それに新生薑《しんしょうが》を添えたのが出ると、お膳の上に涼風が立ちます。茄子をいつも好い色にと思うと、なかなか気を附けねばなりません。若い白瓜《しろうり》の心を抜き、青紫蘇《あおじそ》を塩で揉《も》んで詰めて押したのは、印籠漬《いんろうづけ》といって喜ばれましたが、雷干《かみなりぼし》は日向《ひなた》臭いといって好まれませんかった。
冬の食物に餅茶漬《もちちゃづけ》というのがありました。程よく焼いた餅を醤油に浸《ひた》して、御飯の上に載せて、それにほうじ茶をたっぷりかけるのです。それに同感されたのは緒方収次郎《おがたしゅうじろう》氏で、この味の分らぬ人は話せぬ、といわれたそうです。大阪辺でもそんな風習がありますかしら。賀古《かこ》氏は、鯛茶《たいちゃ》、鰤茶《ぶりちゃ》とはいうけれど、これはどうも、と眉《まゆ》を顰《ひそ》められたと聞きました。晩年の兄は、甘干《あまぼし》や餡《あん》などを御飯に乗せて食べられたと聞きましたが、その頃のことは私は知りません。
明治四十年頃観潮楼歌会といわれるのをなすった頃、その御馳走《ごちそう》をレクラム料理といいました。会の度ごとに小さなレクラム本を繰返して、今度は何にしようか、と楽《たのし》んでいられました。自分の好き嫌いではなく、作るに手のかからず、皆さんのお口に合うようにとのお考でしたろう。それを調理するのには、洋食といえば一口も食べられぬ母が当りました。相談役は私です。ただ正直に、厳重にその本に依るのでした。材料だけは選びましたから、むつかしい物でないのは、食べにくくはなかったでしょう。立派な西洋料理、などといった人もありました。
或時大きな西瓜《すいか》を横に切って、削り氷を乗せ、砂糖を真白にかけて、大きな匙《さじ》ですくって食べていられるところへ行合せました。いつものように、傍には読みかけの御本が置いてあります。終りの年のことです。大分重態になられてからお見舞に上りましたが、すぐ病室へ入るのを遠慮して、傍の部屋にいますと、水蜜桃《すいみつとう》の煮たのを器に入れて、嫂《あによめ》が廊下づたいに病室に入られました。あれが終りの頃の召上り物でしたろうか。
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踊
お兄様が陸軍へお勤めになった初めの頃ですから、私は小学生で十歳位でしたろう。その頃|北千住《きたせんじゅ》に住んでいました。千住は四宿といわれた宿場跡なのです。町は一丁目から五丁目までありますが、二丁目から三丁目までに青楼《せいろう》があり、大きな二階三階が立ち並んでいて、土地で羽振《はぶり》のよいのはその青楼の主人たちです。何かあると寄附金などを思い切ってするのでしたから。お父さんはそんな土地で開業していられたのです。初めは区医出張所といい、向島《むこうじま》から通っていましたが、それが郡医出張所となり、末には橘井堂《きつせいどう》医院となったのです。住いは一丁目はずれの奥でしたが、看板は表通りに掛けてありました。
もと土地の旧家の住いだったという事で、かなり広い前庭には樹木も多く、裏門まで飛石が続いておりました。普通の住居を医院らしく使うのでしたから、診察室、患者|溜《だまり》などを取ると狭くなるので、薬局だけは掛出しにしてありました。
昼は静かなのですが、夜になると遠くもない青楼の裏二階に明りがついて、芸者でも上ると賑《にぎ》やかな三味線や太鼓の音が、黒板塀《くろいたべい》で囲まれた平家《ひらや》の奥へ聞えて来ます。
或夜、たしか酉《とり》の町の日でしたろう、お隣の仕舞屋《しもたや》の小母《おば》さんから、「お嬢さん、面白いものを見せてあげましょう」と誘われたので、行って見ますと、その家の物干《ものほし》から斜に見える前の青楼の裏二階で酒宴の最中です。表二階では往来から見えるというので禁止になっているのだそうで、大分大勢の一座らしく、幾挺《いくちょう》かの三味線や太鼓の音に混って、甲高《かんだか》いお酌の掛声が響きます。甚句《じんく》というのでしょうか、卑しげな歌を歌う声も盛《さかん》です。そこへ娼妓《しょうぎ》たちでしょう、頭にかぶさる位の大きな島田髷《しまだまげ》に、花簪《はなかんざし》の長い房もゆらゆらと、広い紅繻子《べにじゅす》や緋鹿《ひが》の子《こ》の衿《えり》をかけた派手な仕掛《しかけ》姿で、手拍子を打って、幾人も続いて長い廊
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