るのです。何か品をいいますと、後に立っている小僧さんが、元気な声で、「はーい、はーい」といいながら、走って蔵から持ち出して来ます。客の絶間《たえま》もありません。阿部様、土井様、酒井様、亀井様、近くの華族の邸は皆出入です。私どもが曙町《あけぼのちょう》へ移って間もない頃、そこらに火事があって、私の家は高台ですからよく見えます。大丸の棟を火が走ったかと思いましたが、助かりました。何んでも鳶《とび》の者が棟の上に並んで消したとかいいました。そんな旧家は段々に寂《さび》れて、アパート式にもなったようですし、銀行にもなりましたが、いつかその跡もなくなりました。
 そこらに宅の出入の車宿《くるまやど》がありましたが、その親方がいつも、「御前様《ごぜんさま》が、御前様が」といいますから、「御前様とは誰なの」と聞きましたら、「大乗寺の御前様でさあ」と、さもさも知らないのかというような顔をしました。大乗寺の住職というのはよほど敏腕家らしく、宮内省へも出入して、女官なども折々見えるとのことでした。ちょうど吉田屋の裏になります。大事な御得意なのでしょう。
 車宿は通りへ出て一番大乗寺に近く、それこそ傾きかかった三軒長屋の端なのでした。崩れた棟瓦《むながわら》の間から春になると蒲公英《たんぽぽ》が咲きました。どうせ持主も改築するつもりで、うっちゃって置いたのでしょう。その親方は非常に健脚で、遠路を短時間に走るのが自慢でした。遠慮のない大声で物を言いますが、人柄は素朴で、引子《ひきこ》を二人位置き、子供は三人あって、口数の少ない、おとなしそうな妻と睦《むつ》まじく暮らしていました。車を引き込むので土間《どま》は広いのですが、ただ二間のようですから、引子はどこへ寝かすのかと聞きましたら、「二階です」といいます。そう言われて気を附けて見れば、土間から梯子《はしご》がかけてあります。低い屋根ですから、きっと立っては歩かれない位でしょう。その妻が来た時、「今少し広い家へ行きたいのですが、大乗寺が遠くない処と思うのでむつかしいのです」などと話しました。それが、「おやじ、おやじ」というのですが、「おやつ」としか聞えません。それで宅の子供たちは、車屋のことを「おやつ、おやつ」というのでした。
 その妻が急病で死んだ後に来たのは、夫より少し年上らしく、目鼻立はわるくありませんが、額が抜け上ってきつい顔をした女でした。今まで飲むとも聞きませんかったのに、夜分女中が使に出た時などは、差向いで飲んでいるのを見るといいました。或時その女が勘定を取りに来ました。抜け上った額に大きな傷があります。「どうしたの」と聞きましたら、「棚から箱が落ちまして」と、口の達者な人なのに、いつもほど喋《しゃべ》りません。「まあ、危なかったね」といいました。後に女中が、「あれはきっと撲《なぐ》られたのでしょう。何んでもよく喧嘩《けんか》をするそうですから」というのを聞いた主人は、「あの男が、いつの間にそんなになったのか」と驚いていました。いつもそそけ髪で、子供を背負って働いていた先妻の顔を思い出しました。子供たちも人に遣《や》ったか、奉公にでも出したか、見えなくなりました。大分本人の健康もわるくなったらしく、宅へも引子ばかりよこしました。大乗寺への出入もやめたそうで、いつか田舎《いなか》へ帰ってしまいました。僅《わず》か一、二年の間に変れば変るものと、威勢のいい大声を思い出します。
 白山上から坂下の方へ見渡される一町ばかりの処に、古本屋が左右に二、三軒ありました。白山上にあるのはかなり大きく、窪川《くぼかわ》といって、歌集などのよく出ている家でした。私は買物に出た帰りなどに寄って見ます。欲しいと思う本など聞きますと、「ちょっと待って下さい」と、裏のお寺の中に物置でもあるのでしょう、気軽に行って見てくれました。坂を下りた処の店は狭いのですが、年を取った頭の禿《は》げた主人が、にこやかで気安いのでした。そこへもちょいちょい立止りました。あとはずっと奥深く這入って見るような店構《みせがまえ》でしたから、寄った事はありません。そこらは鶏声《けいせい》が窪《くぼ》といいました。近年にそこへ出来た鶏声堂という店は、高島米峰《たかしまべいほう》氏が出していられて、新刊書や教科書類を扱うようでした。何んでも学生たちが立見をして本を汚すと、叱《しか》られるとのことでした。そこは曙町の停留所のすぐ傍、東洋大学の構内へ喰《く》い込んでいました。今の京北《けいほく》中学です。尤《もっと》も電車が通じたのと店が出来たのと、どちらが先だったか覚えません。
 米峰氏はそこは店だけで、店から見える位近い曙町に住居を作られました。四方が道になって高い塀《へい》で囲まれたお家です。ラジオで放送される声はよく聞きましたが、御話はしませんでした。或夏の朝明方、坂の下に立っていますと、米峰氏が来られました。「どちらへ」とお互いに申しまして、「池《いけ》の端《はた》まで」といいましたら、「私も」といわれます。上野|不忍池《しのばずのいけ》で催す蓮《はす》の会へ案内を受けたのです。会主の大賀《おおが》一郎氏は縁つづきになるのでした。米峰氏もそこへ行かれるので、御一緒に駕籠町《かごまち》で乗り換えて東照宮下《とうしょうぐうした》で降りました。何の御話をしたかよく覚えませんが、三宅雪嶺《みやけせつれい》氏御夫婦のお話をなすったようです。何でも金婚式についての事で、「あなたは」とお聞きになりますから、「もうすみました」と申しましたら、「やあ」と仰しゃいました。雪嶺夫人の花圃《かほ》さんは私の学校の御出身です。池の蓮は真盛《まっさかり》で、朝風が心地よく吹き渡って、会場には最早大勢の人が集まっていました。乗って漕《こ》ぎ廻らせるために、小舟が繋《つな》いでありました。戦後の食糧事情のため、池の大部分は水田に代えられて、昔の面影はありません。大賀氏は残念がっていられました。今年などはどうなることでしょう。
 その鶏声堂に、中年の女の人が、冬はいつも真綿《まわた》の背負子《しょいこ》を著《き》ていました。不断は何の気も附かない宅の主人が、「あの人は越後《えちご》ではなかろうか」といいますので、顔馴染《かおなじみ》になった時聞きましたら、やはりそうでした。近親という事です。それは越後の風習で宅の母なども毎年修繕してつかいました。亀の子|笊《ざる》をふせて幾重ともなく真綿を拡《ひろ》げ、新しいのを上に被せます。よい加減の厚さになると浅葱《あさぎ》などに染めたのを上に被せ、薄い布海苔《ふのり》を引きます。染綿は汚目《よごれめ》の附かぬため羽織と著物《きもの》との間に挟んだり上に背負ったりするのに、べたべたせぬために布海苔を引くのです。
 私の家は坂を上ったすぐ右手にあって、門の内に幾百年も経たらしい松の大木がありました。そこらは山ででもあったのを崩したのでしょう。太い根がすっかり顕《あらわ》れて、縦横になっていてよい腰掛でした。ここらは皆土井家の地所なので、向い側は広い馬場になっていました。低い土手がずっと廻って、そこにも四、五本松の大木がありました。その土手には春は菫《すみれ》が咲き、土筆《つくし》などもぽつぽつ出るので、そこらの子供が這い上っては遊びました。そこをまだ若い土井の息子さんが、友達と一緒に馬を走らせるのが土手の上から見えました。老年になってからのお子さんで、大切になさるのだと聞きました。馬場はまた弓射場にもなっているので、月に幾日か弓袋を持った人が出入して、的に中《あた》る矢の音が聞えます。その人たちの休む仮屋が片隅の二本杉の傍にあって、賑《にぎ》やかな人声もしますが、常は静かなもので雉子《きじ》が遊んでい、夜は梟《ふくろう》の声も聞えます。二本杉は名高いもので、昔何代目かの将軍が、野立《のだて》の時|箸《はし》を立てられたのだといい伝えられて、白山上からもよく見えました。門前の松の根に休んでいますと、杉や松の梢《こずえ》を渡る風は颯々《さつさつ》の音を立てて、暑中も暑さを忘れます。人通りもありませんから、夜はよく出て涼みました。
 或夏の夜、そこに休んでいますと、暗い坂の下から歩いて来る人がありました。近寄りましたらお兄様でした。
「まあお珍らしい。さあどうぞ。」
「いや、坂下まで昨夜も来たのだが、今夜も来たからこっちから帰ろうと思って。歩いてここらを通るのは珍らしいよ。ここは涼しいね。」
 ずんずん行っておしまいになりました。吉祥寺《きっしょうじ》の方からお帰りになるのでしょう。馬場はもとより、宅の並びにも門灯の附いているのは一、二軒ですから、月もない頃で、下駄の音がまだ聞えるのに、もう姿は見えません。遠くで梟が鳴いています。いずれ本屋でしょうが、どんな御本がお気に入ったのかと思いました。御手には杖《つえ》ばかりのようでした。
 その後団子坂へ伺った時、聞いて見ました。「この間はどんな本をお求めになりましたの。二晩もつづけてお出《いで》になるのは、よほどお気に入ったからでしょうと思いました。」
「いや、あれは神田《かんだ》の方で買った古本に落丁《らくちょう》があってね。ちょうどその本があそこにあったから、買って来てそこだけ取って補充したのさ。二部は不用だし、向うは商売だから、また相手もあろうと思って、持って行ってやった帰りだった。多分その話はせずに、また誰かに売るのだろう。こっちは話したのだから疚《やま》しくはないがね。」
「そんなお客さんは滅多にありますまい。何の御本でしたの。」
 伺いましたが、「なに」としか仰しゃいませんでした、きっと私などには縁の遠い御本でしたでしょう。
 落丁というので思い出されたのか、その時次のようなお話をなさいました。
 昔下宿をしていられた頃、同じ宿にいた学生さんがひどく本好きで、いつも貸本屋から次々と借りて見るのです。『八犬伝』とか『巡島記《しまめぐりのき》』とか、馬琴《ばきん》の大部のものが多いのですが、それには大抵一冊に二、三個所ずつ絵があるのを、必ず一個所は上手《じょうず》に切り取るので、その頃そんな本の表紙は、浅草紙《あさくさがみ》のようで厚いのに色紙が張ってあるのですから、半紙の薄い中身は糊《のり》で附ければ跡はわからなかったそうです。それをよくも溜《た》めた事、紙の端のそそけたのを裏打《うらうち》をしても、かなりの厚さになるのに、どれだけ読んだのか察せられます。どうするのかと聞いたら、田舎の親に見せるのだといったそうですが、また器用な人で、表紙を附けて綴《と》じるのなどが楽しみでもあるらしく、「そんなことはよしたらよかろう」と、何度いってもやめなかったとの事です。
「好《い》い人なのにどうしてあんな事をしたのか、今はどんな人になっているだろう。同じ本屋から借りるのがいやだった。」
 昔をお思い出しの御様子でした。
「あの頃でしょう、よく合本と分冊との話のあったのは。」
「そうだったね。」
 お兄様(鴎外)は何でも同じ本は重ねてお綴《と》じになり、表紙を附けてお置きになるし、お兄さん(三木竹二《みきたけじ》)は扱いにくいから、別々にして置きたいといって、いつも争いになるのでした。お兄様は後に種々の雑誌を多く寄贈せられるようになってから、それほどでないものまでもきちんと綴じて置かれました。それが山のように溜って、いつまでも日在《ひあり》のお家にありました。
 私もその真似《まね》をして、『しがらみ草紙』などを初号から揃《そろ》えて綴じて、大事にして置いたのです。大正十一年七月にお兄様がお亡くなりになった後で、全集を出すことになって、その合本を平野万里《ひらのばんり》氏が借りに見えました。何だか気が進みませんかったが、たって仰しゃるので、お兄様のためとあきらめてお貸ししました。五十九冊を製本したのを、重たそうに下げて門をお出になるのを見送りました。全集は大正十二年の八月までに七冊出ましたばかりで、あの大震災になったのです。暫くはただごたごたと暮して、何を考えるひまもありませんでし
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