同の贈物に、牛に乗った童子の銀製を選んだのは兄でした。
父は口数の少い方で、患者に対しても余計なことは申しませんが、親切なので、その人がらを好む患者がつぎつぎと知人を紹介して、だんだん病家は殖《ふ》えるのでした。その頃向島にも医師会が出来て、おりおり寄合《よりあい》があり、扱った珍しい患者とか、その変った容態などを代る代る話合うことになりましたが、父はそれを非常に苦にして、「実に困ってしまう。己《おれ》は皆も知っている通り口下手《くちべた》だからなあ」といいます。
その時母は申しました。「それでは林《りん》に相談してみましょう。何とかよい考えがあるかもしれません。」
その頃兄は、土曜日ごとに家へ帰って来るのでした。年はまだ十七、八歳でしたろうか、両親は頼もしいものに思って、何事も相談するのでした。
「何かよい考《かんがえ》はないかねえ。お父様は今までにそんなことに馴《な》れていられないから、ひどく苦にしていらっしゃるのだが。」
そこで兄は、様子を父から聴いて、二、三枚の原稿を書きました。
「こんなことではどうでしょう。私の考違いがあったら直します。」
父は喜んで、「いや結構だろう。随分どうかと思われるようなことをいう人もあるのだから。自分の考も少し混ぜて話すとしよう」といいました。
やがてその日が来ました。何んだかそわそわして落附けませんかった父は、夕刻機嫌よくお帰りになって、「よかったよ。なかなか評判がよくて、己は面目を施したよ」とのことでした。
次の土曜日には、父は朝から、「今日は林に好物を御馳走《ごちそう》してやろう」といって、兄の帰りを待っていられます。私たちはお相伴《しょうばん》が出来るので大喜びです。
「この間はありがたかった。お蔭《かげ》で工合がよくて、会長から、森さんあなたがあんなにお話が上手だとは思いませんかった、またどうか話して下さい、といわれたよ。」
父のそうした話を聞いて、「それはお父様のお話し方がよかったのでしょう。あんなことでよければ、いつでも間に合わせます。お話になりそうなことは気を附けて置きましょう」と兄は申しました。
その日は家内中晴やかな気分で、御馳走をいただぎました。
それからいつでしたか父が、母に向って、「やっぱり林は普通の子ではないねえ。己たちの子としては出来過ぎている。どうか気を附けて煩《わずら》わぬようにしなければならないよ」と語られるのを聞きました。
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書物
向島に住んで小学校にも通い馴《な》れた十歳位の頃でした。日曜日に本郷《ほんごう》から帰って来られたお兄様が、床脇《とこわき》の押入れの中に積重ねてあった本の中から一冊を抜出して、「こんな本を読んで見るかい」とおっしゃいました。
和綴《わとじ》のかなり厚い一冊物で、表紙は茶色の熨斗目《のしめ》模様、じゃばらの糸で綴じてあり、綴目の上下に紫色の切れが張ってあって『心の種』と書いてあります。橘守部《たちばなもりべ》の著なのです。今までそんな形の本は見たことがないのですから、嬉《うれ》しくってたまりません。「わたくしに解るかしら」と、おかっぱ頭をかしげました。「これは歌の御本ね。『古今集』の序に、やまと歌は人の心を種として、よろづの言《こと》の葉とぞなれりける、とあったもの。」
「何だ、そんな事を知っていたのか。」
知っていたというのではなく、何でも手当り次第に見るのですから、ふっとそれを思出したのです。
「これはお祖父様《じいさま》の御本だったのだよ。」
「では大切にしましょうね。」
大切にはしましたけれど、面白いとは思いません。こんな本もあると、机の上の本たての飾のつもりでいました。
次に見せて下すったのは『宇津保《うつほ》物語』でした。これは絵入で、幾冊もあって、厚い表紙は銀泥《ぎんでい》とでもいいますか、すっかり手摺《てず》れて、模様もはっきりしません。一冊の紙数は幾らもないのでした。仮名書の本は読みつけていましたから苦になりません。家に古くからあった草双紙《くさぞうし》のどこを開けても絵があって、その絵の廻りに本文がびっしり仮名で埋めてあるのを、今頃の子供たちが新聞でも見るように読みつけていましたから。
見せて下さる本の中には、ひどく古くて、表紙や裏表紙も破れていて、中は歌の題にふさわしい歌の言葉をいくつも並べて、さもさも続けて御覧なさいというように見えるのもありました。
「これは何という御本です」と伺ったら、「題などはどうでもいいよ。古本屋がおまけにくれたのだから」と、お兄様は笑っていられました。
清輔《きよすけ》の『袋草紙《ふくろぞうし》』でしたか、ひどく大きい本で、中の字は荒いのです。「紙が無駄だこと」と私はつぶやきましたが、お兄様は、そこに朱でいろいろ書入れをなさるのでした。私に見せて下さるばかりでなく、御自分が見たくてお買いになって、その跡を下さるのです。
博文館の『日本文学全書』や『日本歌学全書』が出るようになってから、手軽に本が手に入るので、次々と買って読みます。木版本は本箱に積んで置いて、折々出して見るのでした。
女学校の始めの頃に学校で読みましたのは『徒然草抜穂《つれづれぐさばっすい》』『土佐日記』『竹取物語』などで、きっと教科書用に拵《こしら》えたのでしょう、誰にでもやさしく読める本でした。学校も始めはお茶《ちゃ》の水《みず》でしたが、上野《うえの》になり、一《ひと》ッ橋《ばし》に移って行き、その間に校長も先生もたびたび代ります。平田|盛胤《もりたね》という若い国語の先生が見えました。平田|篤胤《あつたね》の御子孫だそうで、尤《もっと》も御養子とのことでした。『土佐日記』の一節を一わたり講義なすって、「不審のある方は手を挙げて」とおっしゃると、幾人もいない生徒のあちこちから手があがります。注釈本でも見たら一目で解るものをと思いますのに。
同級に土佐出身の身分の良い家のお嬢さんがいられて、美しいお方でしたが、
「かみがらにやあらん、くにびとの心のつねとして、いまはとて見えざなるを、心あるものははぢずぞなん来ける。これはものによりてほむるにしもあらず。」
このことを先生は気の毒がって、「こんなに書いてありますが」と言いわけをなさるのを、皆笑いました。お家におりおり発作をお起しになる御病気のお母様があったそうで、時間中にお迎いが来ることなどがありましたが、やがてお出《いで》にならなくなりました。
漢文の先生は背の高い中年の太った方でした。赤いお顔をはっきり覚えています。小森先生とかいいました。御自分で、いろいろの本から抜萃《ばっすい》されたのを仮綴にして配られなどされましたが、この方も間もなくおやめになりました。
級が進んでから中村秋香《なかむらしゅうこう》先生が見えました。お歳は五十歳位でしょうか、痩《や》せた小柄の更《ふ》けて見える方で、五分刈《ごぶがり》の頭も大分白く、うつ向いた襟元《えりもと》が痛々しいようです。厚い眼鏡の蔭から生徒たちを見廻されます。始めて出られた時、自分が好む本だからと、新井白石《あらいはくせき》の『藩翰譜《はんかんぷ》』を持って来られて、右手を隠しに入れ、左の手に本を持って、生徒の机の間を歩きながら読上げられます。興に乗って、手振り足踏みが盛んになると、私は面白く聞入っていましたが、大抵の人はくすくす笑います。それに黒板に書かれる字がひょろひょろとして、とても読みにくいのを、笑わぬ人はありません。先生には学校が終ってからも長くお附合いしましたが、お手紙も短歌も見事なものでした。白石のものを使われたのは、近世の文章の規範となるものとのお考でしたろう。
兄の歿後、与謝野寛《よさのひろし》先生のところへおりおり伺うようになった頃、『日本古典全集』が出版になりました。あの赤い表紙はどうかと思いますが、寛先生のお好みのように聞きました。あれは割合に評判がよく、長い間続いて出ましたから、積上げた高さはかなりです。昔の本でしたら、非常な量になりましょう。
戦争のために疎開する時、活字の本を先に出して、木版本を入れた本箱を後にしたのは、なるべく身近に置きたかったからです。お兄様が洋行をなさる時、女学校入学前の私に置土産《おきみやげ》として下すった『湖月抄《こげつしょう》』は、近年あまり使わなかったので、桐《きり》の本箱一つに工合よく納めてあったのを、そのまま出しました。預け先は親類で、鉄筋コンクリートの大きな蔵でした。衣類家具類なども一緒です。
後に残した荷物は、近辺一帯の疎開命令でしたから、家の前の往来はただ車の行列で、なかなか順が廻って来ません。やっと約束の日が来る前の晩に、巣鴨《すがも》から本郷にかけて綺麗に焼けてしまいました。翌朝になって、疎開先の目黒《めぐろ》で書入れのある本や、由緒のある本のことを思って残念がりましたが、目黒の家の上も飛行機が毎日通るのですから、ここまで持って来ても、同じ運命になるだろうとあきらめました。
或日「それ飛行機」というので、急いで地下室に入りましたら、台所の屋根を打抜いて弾《たま》が落ちました。けれども地下室にいましたので、それほど音は聞えませんかった。棚に積重ねてあった瀬戸物類は全部粉砕しましたが、幸いにそれは不発でした。隣家の庭に落ちたのも不発でした。実弾ならば、怪我《けが》位では済まなかったでしょう。誰にも明日の事は分かりませんが、さし当り雨だけはというので、男たちは屋根に上って修繕し、私どもは瀬戸物の屑《くず》をかき寄せるのでした。
終戦になって少し落ちついてから、荷物が返されたのを見ますと、誰が蔵へはいって始末したのでしょう。あれだけあった『古典全集』が幾らもありません。『文学全書』『歌学全書』など、たびたび見る本は、表紙が破れるので綴じかえて、上にそれぞれ書名を書いて置いたのですが、それも同じことで、幾冊か残っているだけでした。ただ奇蹟とでもいうように、『湖月抄』の本箱だけは無事でした。暗い蔵の中の下積みになっていたので、ただの古本の箱と思って見捨てられたのでしょう。
その後また幾年も経過して、烈しい世の中の動きにつれて、住所も安定しませんので、いよいよ老耄《ろうもう》した私は、焼け残った本を少しずつ持って、あちこち流転を続けています。
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落丁本
小石川《こいしかわ》の白山《はくさん》神社の坂を下りて登った処は本郷で、その辺を白山|上《うえ》といいます。今残っている高崎屋の傍から曲って来て、板橋《いたばし》へ行く道になります。農科大学前の高崎屋は昔江戸へ這入《はい》った目印で、板橋で草鞋《わらじ》を脱いでから高崎屋まで、いくらの里程と数えたと聞きました。
白山上は団子坂《だんござか》から来た道、水道橋《すいどうばし》から来た道、高崎屋の方から来た道と、三つが一緒になって板橋へ延びています。そこの角の万金という料理屋は大分古いので、昔東北の方から来る人たちは、そこで支度でもしたのでしょう。様子は変っても、戦災前までありました。これは近年のことですが、その万金の側に食料品屋が出来て、屋根一ぱいの看板をあげたのが浅田飴《あさだあめ》の広告で、「先代萩《せんだいはぎ》」の飯焚場《めしたきば》の鶴千代君《つるちよぎみ》の絵でした。「空《す》き腹に飯」という文句がよく出ていました。実物大といいましょうか、どうもよほど大きいようで、どこでもあんなものは見かけませんが。それが下手な絵なので、見苦しいと思いました。
通りの向いに大丸といって、そこらでの大きな呉服店があって、しっかりした土蔵造りでした。店の前に幅の広い紺の暖簾《のれん》に大丸と染めたのが、いくつか斜に往来へ出ていて、縁にかなりの幅の真田紐《さなだひも》が附いて、石が重りになっていました。その間から這入りますと、番頭が幾人か並んでいて、お客さんはその前へ腰を掛けて買物をするのでした。天井から美しい帯地や反物《たんもの》が頭の上へ下げてあるのは、目新しい品を目に附くようにす
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