進め、佐善氏の仲介で川田氏の養子にきまりました。川田氏は元老院議官で西氏ともお役向《やくむき》の知合です。ところが川田氏があまり次兄を愛されるので、あちらの親戚から故障が出て、譲与の契約の削減の事を仲介者の佐善氏から申されました。その態度に憤慨されたお兄様は、「譲与の額の多寡は問題ではない。男が一旦《いったん》明言した事を傍《はた》の者のために左右せられるのは、弟の将来のために頼もしくない」と、直に川田氏を尋ねて破談を申されたのです。その話を父から聞かれた西氏は、
「なぜ早く聞かせなかった。何とか穏《おだや》かな方法もあったろうに、何しろ林《りん》はまだ若いから」といわれました。
ほんとに兄は若かったのです。
やがて兄の洋行の時が来ました。その報告に父が伺ったら、西氏はひどく喜ばれて、「己《おれ》も近頃は医者にかかるが、心安くしても相当の謝礼はする。経済上にもよい。専門は何か」と聞かれます。
「何か衛生学とか申しておりました。」
「そうか」と、さも残念そうでした。臨床的な科ならよいと思われたのでしょう。でも過分な御餞別《おせんべつ》を下さいました。
洋行して帰った時、早速縁談をいわれたのは西氏です。御養子紳六郎氏の姉君、赤松《あかまつ》男爵夫人の長女で登志子《としこ》という方でした。
「小さい時から知っている。林の嫁はあれに限る」といわれるのでした。
その話は順調に進んで、結婚の翌年男の子が生れました。若い方でしたが、お気の毒な結果になりましたのは明治二十三年の秋でした。そのお子が於菟《おと》さんです。
そのころ西氏は脳疾で、あらゆる御役を引いて、間もなく大磯《おおいそ》へ引移られました。三十年の一月に大磯で薨去《こうきょ》され、男爵を授けられました。兄が御遺族の嘱託によって、三月から筆を執って『西周伝《にしあまねでん》』を草し畢《おわ》ったのはその年の十月中旬です。
西紳六郎氏にお子さんがありませんので、赤松家の末男が今西氏の後嗣《あとつぎ》です。それは於菟さんの叔父《おじ》に当る方でしょう。
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寄席
千住大橋《せんじゅおおはし》に近く野菜市場があって、土地の人はヤッチャ場《ば》といいました。その市場の左右に並んだ建物は、普通の住宅と違います。どれもがっしりした二階建で、下は全部が大抵、三和土《たたき》になっていて、住いは二階です。二階は細い千本格子《せんぼんごうし》ですから、外はよく見えますまい。外から内はもとよりのことです。
市場の賑《にぎわ》うのは朝だけです。近在から集まる農家の人々は、前日から心がけて、洗い上げた野菜を前晩に荷造して車に積上げて、被《おお》いをして置き、夜の明方に荷を引出します。ですから寒中には、霜が荷の上に光るのです。前を引くのは皆屈強な若者たちですが、後押《あとお》しは若い女たちがします。一人ならず二人でもします。ちょいちょい坂もありますから後押も必要なのでしょうし、また毎日土にまみれて働く人々には、町中へ出るというのが楽しみでもあるらしく、女たちは皆小ざっぱりした支度で、足拵《あしごしら》えも厳重に、新しい手拭《てぬぐい》を被り、赤い襷《たすき》をかけて、ほの暗い道を、車を押して来るのでした。
私の家は北組といって、千住一丁目の奥深いところでしたけれど、まだあたりの白《しら》まない内から、通を行く車の音や人声が聞えます。五丁目から一丁目にかけては、市場へ行く重《おも》な道ですから、当然でもありましょう。北組をすぎて中組にかかると、市場も程近いというので、後押の人の中には引返して帰るのもあります。家にはまたそれぞれの仕事があるのでしょう。
あちらこちらから集った農夫と、買出しに来た商人たちとで、市場は一杯になります。声高《こわだか》に物をいい交し、あちこちと行違い、それはひどい混雑です。毎朝その市場の人込《ひとごみ》を分けて、肋骨《ろっこつ》の附いた軍服の胸を張って、兄は車でお役所へ通われます。混雑の中を行くために、幾分か時間のゆとりを見て置かねばなりません。少しは廻っても、外に道はなかろうかといいましても、人力車《じんりきしゃ》の通う道はないのです。
野菜は時節に依っていろいろと違いますけれど、何はどこの家と大抵は極《きま》っていたようです。時には灯が附いてから人の集まることもあります。新蓮根《しんれんこん》の出始めなど、青々した葉の上に、白く美しい根を拡げたのが灯に映《は》えて綺麗《きれい》ですが、それは一、二軒だけです。
野菜をせるのはなかなか威勢のよいものです。四斗樽《しとだる》ようの物を伏せた上に筆を耳に挟んだ人が乗って、何か高声に叫びますと、皆そこへ集まって来ます。それからは符牒《ふちょう》でしょう、何か互《たがい》にいい合って、手間《てま》の取れることなどもありますが、極《き》まりが附いて皆がそこを離れるころには、また別の方で呼立てます。天気の時は大抵軒下でしますが、雨が降るとどやどやと這入《はい》りますから、広い三和土《たたき》も一杯です。朝の市が済んで、そこらを掃上《はきあ》げて、静かになってから、人々は朝餉《あさげ》を取るのでしょう、出て来た人たちを相手のちょっとした食事の出来る店もあります。腰を掛けて休む店も幾軒かありますが、それは市場を離れて大橋へ行く道の後を田圃《たんぼ》にした辺にあって、並べた菓子類などが外から見えます。そうした家では、どこでも毬餅《まりもち》とか、新粉《しんこ》の餅に餡《あん》を包んで、赤や青の色を附けたのを糯米《もちごめ》にまぶして蒸したもので、その形から名附けたのでしょう。それに混って雀焼屋《すずめやきや》があります。それはこの土地の名物です。小鮒《こぶな》の腹を裂いて裏返し、竹の小串《こぐし》に刺して附焼《つけやき》にしたもので、極く小さいのは幾つも並べて横に刺すので、それは横刺ともいいます。鮒は近在で捕《と》れるのでしょう、大きな桶《おけ》に一杯入れたのが重ねてあって、俎板《まないた》を前に、若い男がいつも串刺に忙しそうです。
野菜市場のしにせ[#「しにせ」に傍点]に美しい娘があって、長く患っていて、幾人もの医者にかかっても直らぬとのことで、最後に父に診察してもらいたいと、そこのかかりつけの医者から頼んで来ました。父は新しい病家などは好みませんけれど、人力車で迎いに来たので行きました。やがて帰られたので、「何病でした」と誰もが聞きます。美しい娘だったからです。父は、「いや、すぐ直るだろう」と何気ない様子でした。「呼吸器だろう」などと噂《うわさ》をしましたが、間もなく全快して、病家では非常に喜んで、手厚い謝礼をしました。その貰い物で賑《にぎや》かな夕食の時に、兄が、「何病でした」と問いますと、父は笑って、「なに、長襦袢《ながじゅばん》を一枚むだにしたのさ」といわれたばかりでした。
その美しい娘というのは、虚弱で下剤の利かぬ体質だったために秘結《ひけつ》に苦しんでいましたが、灌腸《かんちょう》を嫌うので治療の仕様もなくて、どの医者も手を引きましたので、父は家人に話して、長襦袢に穴をあけて、それで灌腸器を挿入したところから快通があって、それからずんずん直ったのでした。強情だった娘も、さすがに疲れた時だったのでしょう。それから市場にも病家が出来ました。その後その家の前を通る時には、ここが長襦袢の家だと思いました。
市場の近くに、寄席《よせ》がありました。小路《こうじ》の奥まった所で、何といいましたか、その名の這入った看板が往来に出ていました。兄は毎日そこを通られるのです。小さいけれど、三丁目にも寄席はありましたが、近いので、顔見知りの人が多いからでしょう、遠い方の寄席へ行かれます。夜一しきり明日の下調べが済むと出かけられるので、なるべく目立たぬ服装をして、雨が降っても平気です。尤《もっと》も乗物などはありません。
どうしたのか、その寄席へただ一度連れて行って下さいました。入口で木戸番がにっこりして、手磨《てず》れた大きな下足札《げそくふだ》を渡しました。毎朝車で通る人とは知るまいと、兄はいつもいわれますけれど、どうでしょうか知ら。すぐ女が薄い座蒲団《ざぶとん》と煙草盆とを持って来ます。高座に近く、薄暗い辺に座を占めて、すぐ煙筒《キセル》をお出しになります。家では煙筒をお使いになりませんから、珍しいと思って見詰めていました。
あまり人はおりませんでした。落語はそれほど上手ではないようです、私は始めて聴《き》いたのですけれど。一人二人代ってから出て来たのは、打見《うちみ》は特色のない中年の男でしたが、何か少し話してから居ずまいを直して、唄《うた》い出しました。
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小野小町《おののこまち》という美女は、情知らずか、いい寄った、あまたの公家衆《くげしゅ》のその中に、分けて思いも深草《ふかくさ》の少将。
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まあ何んという美声でしょう。薄暗い高座も、貧しい燭台《しょくだい》の光も目に入りません。私はただ夢中で聴きとれていました。なお唄い続けます。
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九十九夜《くじゅうくや》まで通い詰め、思いの叶《かな》う果《はて》の夜《よ》に、雪に凍えて死んだとは、少々ふかくなお人じゃえ。
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楽屋へ引込んだ跡で、やっと気が附いたかのように、そこらの客が一斉に拍手を送りました。
兄は「連れて来てよかったね。もう帰ろう」といって、立上られました。まだ跡があるのでしたが、私もそれで十分と思って、人の間を分けて、下足の方へ出ました。
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原稿
兄鴎外と一緒に暮した幼い時の話をとのことですから、向島《むこうじま》の小梅村に住んでいた頃のお話でもいたしましょう。明治十年頃のことです。
父は郷里から出て来た当座、亀井家のお邸のすぐ近くの小さな借家に兄と二人だけで住んでいましたので、私は祖母、母、次兄と後からそこへ来たのです。父は毎日お邸へ診察に出かけ、後は近所の知り合の病人を見るくらいのものですから、至って暇でしたが、家には庭がないので、好きな土いじりが出来ません。手狭《てぜま》で診察室もないのですから、どこかもう少し広い所をと探して、小梅村の家を見つけたのでした。
その家は五間ぐらいでしたが、庭が広くて正面に松の大木があり、枝垂《しだ》れた下に雪見灯籠《ゆきみどうろう》がありました。左と右とにも松があって、それぞれ形の違った石灯籠が置いてありました。それが大変父の気に入ったので、引込み過ぎて不便なのも厭《いと》わずそこに極《き》めました。表門の脇《わき》には柳の大木があり、裏には梅林もあって、花盛は綺麗《きれい》でした。後大正六年に兄がその旧宅地を尋ねて見た時に、庭園の形が残っていて、雪見灯籠もまだあった由が日記に見えています。
家の右隣は農家の畑地でした。左隣には大きな池があって、人の鯉屋《こいや》と呼ぶ家がありました。そこには気の少し変な中老の女がいて、お釜《かま》を洗って底の飯粒を寄集《よせあつ》めては、「おいしい、おいしい」というのが聞えるということでした。
その頃兄は学校の寄宿舎でしたろう。次兄と私とは小学校で、私はまだ小さかったのですから、寂しい田圃《たんぼ》の中の道を通うのに、雨降りの日など、いつも祖母に送ってもらいました。風呂敷包《ふろしきづつみ》を斜に背負い、その頃よく来た托鉢僧《たくはつそう》のような饅頭笠《まんじゅうがさ》を深々と冠《かぶ》り、手縫いの草履袋を提げた私の姿は、よほど妙であったらしく、兄たちは菌《きのこ》のお化《ばけ》だとか、狸《たぬき》のお使いだとかいって笑いました。
その笠に画いた墨絵は兄の筆でした。兄はよく四君子《しくんし》を画いたり、庭を写生したりしたので、童子が牛に乗って笛を吹いている絵を殊《こと》によく画きました。それがかわいいので、よくねだって貰《もら》ったものでした。明治四十四年に寺内《てらうち》陸軍大臣が引退せられる時、部内の高等官一
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