しまいました。
或年の正月に、はつは年始に来ました。私は母と昼の食事をしていたところで、「私は済して来ましたから」と、離れの母の部屋で待つことにして、そちらへ行ったかと思いますと、「奥様、御隠居様」と、大声で呼立てます。
何事かと思って、廊下を急いで行って見ましたら、母の部屋の障子の隙間《すきま》から、煙が盛《さかん》に吹出しています。
「あっ」とびっくりしましたが、はつはすぐに障子を開け拡げて、縁先にあった瀬戸の大きな手水鉢《ちょうずばち》を取るなり火燵《こたつ》へ投げつけました。その一杯の水で下火になったところへ、私たちも手に手に手桶《ておけ》を持って来て、水をかけて火を消しました。母は灰を厚くかけて食事に立ったのですが、炭火がはねて蒲団に燃えついたのです。もう少し知らずにいましたら大事になったでしょう。それでも天井は幾分か焦げました。ちょうどはつが来合せて、咄嗟《とっさ》の機転で事なく済みましたが、それから母は、飛んだ失敗を悔むにつけても、はつの行動を喜んで、その話の出る度に、「忠義のはつが」といわれます。それを子供たちが笑いました。
その内に、父が亡くなったから暫く田舎へ行きます、という便《たより》がはつからあったので、それもよかろう、あの目の悪い人と東京で暮すのでは骨が折れようからと思いました。
それからはつのことも、忘れるともなく忘れて時が立ちましたところ、久しぶりに尋ねて来たのを見ますと、小ざっぱりした様子はしていますが、元気がありません。
「お暇乞《いとまごい》にまいりました」といいます。
「どこへ行くの」と聞きましても、すぐには答えずに黙っています。涙ぐんでいる様子です。
「実は死ぬつもりです。」
はつがそういったのに、私はびっくりしました。あまりに落附いて、静かな声でいうものですから、聞違えたのではないかと思って、問返しますと、はつは事情を話しました。
「田舎は田舎で暮しにくく、父も亡くなって弟の所帯となってからは、世話になるのも気の毒ですし、今後どうという見込《みこみ》も立たないのですから、人にあまり迷惑をかけない内にと思います。娘が尋ねて来てくれましたが、今の私からかえって助けてもらおうというのですから、どうにもなりません。それで決心いたしました。主人には、時々便をくれる従弟《いとこ》のところへ行くように、その旅費だけは用意してありますからといいましたが、この不自由な体で行く気はない。お前がする通りに己《おれ》もするといいます。実は私としても、跡に残して行くのは心がかりですから、それならと話し合って来ました。」
はつはそういうのです。私はこれまでこんな話をしかけられたことはなし、重々気の毒とは思うけれども、どうしてやる力もなく、思案に暮れるばかりでした。
「まあ、そう思詰《おもいつ》めないでもよいではないか。どうかして上げたいのは山々だけれど、檀那様《だんなさま》はお前も知っている通り、お金の取れる仕事ではないので、どうにもならないが、一体どれくらいあったら凌《しの》いで行かれるの。」
かように尋ねますと、今までは父の地面に小さな家があってそこにいたけれど、今度義理のある親戚《しんせき》をそこへ入れねばならなくなり、弟も事情があって断れないでいるとのことで、「少しずつでも遣ったら、また置いてもらわれましょうか」といいます。
「そうかい。私のことだから、大したことはして上げられない。お前を御贔屓《ごひいき》の御隠居様も亡くなって、相談する人もなし、私の心ばかりだけれど、毎月送って上げよう。」
私はそういって、今度出て来た費用の足しにでもと、金を包んで出しましたら、何ともいわずに取りました。よほど手元が苦しいのでしょう。帰りの汽車賃もないのかも知れないと、可哀そうになりました。
その月末に送金しましたら、先月はお世話様になりましたと、礼をいってよこしたので、無事にいたかと安心しました。それから一年ほど過ぎて、連合《つれあい》の亡くなった由を知らせて来ました。志を送りましたら、その返事に、これで私も安心して逝《ゆ》かれます、としてありました。
その秋地方に流行性感冒の蔓延《まんえん》しました時、はつは年は取っても元気を出して、あちこちの看病に雇れていたのですが、とうとう自分も感染して、年寄の流感で、それなり逝《い》ってしまいました。好い性質の人であり、勤勉でもあったのに、不遇の一生だったのが気の毒です。
香奠《こうでん》を送りましたら、弟からの便りに、長年世話になったことの礼を述べ、終り間際にもお宅のことばかりいっていて、あなた様方の御寿命の長久を祈りますと遺言して、安らかに息を引取った、としてありました。
私はすぐに母の仏壇に線香を上げて、「お話相手が行ったでしょう」といいました。
はつの祈ってくれたせいですか、私は今に丈夫で暮しています。
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普請中
戦災後十年を過ぎて、焼け失《う》せた曙町の旧宅跡に、ようよう普請をする運びになりました。何にせよ五十年間住んだ土地ですから、周囲の様子はどんなに変っても、なつかしさには変りがありません。とはいうものの、地境《じざかい》になっていた大きな杉並木もなくなったばかりか、そこらの人が根まで掘って薪《まき》にしたというのです。まして軒端《のきば》に颯々《さっさつ》の声を立てた老松を思い浮べますと涙ぐまれます。ただ一面の焼野原になったのですから、今ある五、六尺以上の木は、どれも皆近年住みついた人たちが植えたのでしょう。昔の土井の邸に名高くて、遠方からの目印になった二本杉の馬場のあたりには幼稚園が出来て、毎日子供たちが遊んでいます。ここらは以前は暗いほど樹木が茂って、夜は梟《ふくろう》の声が物凄く、草原には雉子《きじ》が羽ばたいていたところだったのです。「庭木の移植には時期がありますから」と、庭師が来て、石灯籠を崩したり、庭のそこここを掘返したりいたします。それで、「一番最初に庭木がお引越ですね」といいました。掘上げた根を縄で捲《ま》いていますところへ、それを積んでゆくトラックの音がして来ます。椿《つばき》、どうだん、躑躅《つつじ》などの丈の低い木はそれほどにも思いませんが、白梅の古木や楓《かえで》などは、根が痛まず、障《さわ》りのないようにと祈られます。楓の紅葉は庭一面を火の燃えるように照して、それを誰もが賞美したのですが、今年は普請場の傍で寂しく紅葉して、寂しく散ることでしょう。幾百年を経た松の古木があって、昔の東海道のようだと誇った土地も、哀れなことになったので、今遠方から少しずつ木を運ぶのです。
引越といっても、私は老体で何も出来ませんから、長男や嫁がいろいろ心配して、住みよくしてくれた狭い部屋で、手廻りの箱や包をぽつぽつ整理しています。他人には何の趣もない紙屑《かみくず》や小切れでも、皆それぞれに思い出があるものですから、それらを手に取上げて見詰めたりします。小切れのたとうの中に、黒地に一面に大小の紅葉を染めたのがありますのは、長女の五つの時に初めて袖の長い衣類を作ってやった、その時のです。小金井の家は戊辰《ぼしん》の際に朝敵となった長岡藩の士族で、主人は貧しい家に兄弟が多く、貸費生《たいひせい》で仕上げたのです。それに父は病身で早く亡くなったので、留学中の家族の生活費は郷里の商人から借り、帰朝後|僅《わず》かな月給の中から、それをだんだんに償還したのでした。やっと大学教授の職に就いた時、寄って来るのは補助を頼む人ばかり、母を養い、弟妹の学資を出した跡は、質素な生活をするだけがやっとのことでした。ですから七五三のお祝など、思いも寄りませんかった。森の母が、「でも女の子だから」と、いろいろ手伝ってくれたのですが、著物《きもの》は出来ても、帯がなかなかです。母は出入の呉服屋を団子坂へ呼んで、私に見せて下さいましたが、私はただその値段に驚くばかりでした。その日はきっと日曜日だったでしょう。兄が出て来られて、「作った人の骨折《ほねおり》を思えば安いものだ。綺麗だねえ」といわれました。けれども私は、そんなのは勿体《もったい》ないと、型ばかりのにしたのでした。その娘がもはや還暦なのです。とんだ昔話になりました。
今一つの友禅の切れは、森の母が久しぶりに迎える嫁の料にと、心の中でその面影を忍びながら求めた切れの見本です。家内を迎えるために休暇を取って帰る兄に見せようとせられたのでしょう。その時私がたずねましたら、「お前はまだ見たことがないが、それは美しい人だよ。あの人が来てくれたのに、こんな著物を著せて、そこらに坐らせて置いたら、兄さんはもとより、私がどんなに楽しみだろうと思ってね」と、夢見るような目附《めつき》をなさったのを、いまでも忘れずにいます。夢想と現実との違うのが世の習いですが、希望の大きかっただけに、母のその後の落胆の度も強かったのでしょう。
観潮楼の二階で、親戚だけの型ばかりの式を挙げて、翌日夫妻は連れ立って任地の小倉《こくら》へ立たれました。母はその前後をただ多忙に過されましたが、噂《うわさ》を聞いて待っていた祖母は、恐らくその美しい孫嫁の一声をも聞かれなかったでしょう。残念がっていられました。
私が小倉へ向けて手紙を出しましたら、その返事をお嫂様《ねえさま》は下さいましたが、文面には兄の息の通っているような気がしました。私は日常に追われて、手紙も度々は出しませんかった。あちらから戴いたのは、ただ一度だけでした。
美しい方《かた》でしたから、まだお若い時に或富豪に望まれて、お片附《かたづき》になったのです。そのお支度をするとて京都に滞在していられたように聞きました。そこはすぐに不縁になって、里に帰っていられる内に、縁があって森の家へ来られることになったので、その時のお支度をそっくり持って来られたのです。兄が東京勤めになって、家族が一緒に住み始めた頃、母は、「いろいろ見せて戴いたよ」といわれました。床の間には定紋の縫《ぬい》のある袋に入れた琴や、金砂子《きんすなご》の蒔絵《まきえ》の厨子《ずし》なども置いてありました。何しろいろいろの衣類を持っていられるのですから、私の娘も一度拝借したことがありました。富豪へお嫁入なすった時に、先方の母親が「お著物を拝見しましょう」といわれ、見終ってから、「官員様のお父様としては、よくお揃《そろ》えになりましたね」といわれたので恥しい思《おもい》をした、と話されたそうです。物には段階があるもので、われわれなどの夢にも知らぬあたりのことです。
その頃は誰も遠慮がちなので、静かな家庭のようでした。それがいつまでも続けばよかったのですけれども、そうは行かなかったのです。或時|紺飛白《こんがすり》の筒袖《つつそで》の著物の縫いかけが、お嫂様のお部屋にあったのを見かけました。於菟《おと》さんの不断著《ふだんぎ》を縫って見ようとなすったのです。媒妁《ばいしゃく》をして下すった夫人は社交家で、「森さんは奥さんのお扱いが下手《へた》だ」といわれましたが、世馴れた人の目からは、そう見えたのかも知れません。
「森さんはお母さんばかりか、お祖母《ばあ》さんもおありだから、お嫁さんはお骨が折れましょう」という噂を聞いて、いっこくな祖母は腹を立てて、「何も私は急に出て来たのではない。誰も始めから知っているはずだ。長命なので、人様のお邪魔になってはならぬと、小さい体をなお小さくしているのに」と泣かれます。行合せた私が慰めて、「まあまあ誰がそんなことをいったのか知りませんが、気にお懸けなさいますな。あなたは森の大事なお祖母様ですものを。それはお兄様が一番よく知っていらっしゃるから御心配ありませんよ。それよりお祖母様、今日は手製ですけれど、お好きな栗のきんとんのおみやげです。召上って下さい」といいますと、「それではお昼に戴きましょう」と御機嫌をお直しでした。家族が多ければ、それだけ事の多いのも仕方がないのでしょう。
どこの家庭でも、泣いたり笑ったりする内に、知らず知らず年月を過し
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