ず楽しんでいるかと思いまして。
跡は親しい近親の人に形見として分けました。小さい男の孫は、「おじい様のようでしょう」と、赤い紐を指にかけて握って見るのでした。残して置いた幾つかは、小さい箱に入れたまま、惜しいことに戦災で失いました。
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忠婢
はつが始めて家へ来たのは、明治三十年頃でしたろうか。私の子供も長男に妹が二人で、皆まだ小さくて、手のかかる盛《さかり》でした。
その頃のことですから雇人に不足はなくて、請宿《うけやど》へいって遣《や》りますと、すぐに人をよこしてくれます。或時頼んで遣ったら、そこの引手《ひきて》が三人の女を連れて来て、「どれでもお好きなのをお使い下さい」といったのには呆《あき》れました。まだ若かった私は、一目見たばかりの女たちを何ともいいようがなくて、「どうしましょう」と母に相談しましたら、「お前が若いのだから一番若いのにしたらよかろう」といわれたので、それに極《き》めました。そんなに手軽に雇っても、調べが行届いていて、割合に間違などはないのでした。その頃は曙町に住んでいましたので、請宿は白山《はくさん》坂の中途にありました。雇人|口入《くちいれ》業という札が出ていて、いつも人が集っているのでした。引手をする女は五十くらいだったでしょうか。額の抜け上った、小形の痩《や》せた女でした。ちょっと往来に出ても、その女が若い女を連れて歩いているのに出逢います。長くやっていて信用もありますし、この辺は邸《やしき》が多くて、どこでも人を置きますので、それで忙しいのでしょう。
そんなに手軽には雇われますが、とかく出這入《ではい》りの多いのには困りました。少し落附いて子供を見てくれるような人があったらと心懸けていますと、森の於菟《おと》さんが里子に行っていた平野という家の老婆が世話好きで、田舎の方に心当りがあるというので頼んで置きましたら、或日のこと、三十近い女が大きな荷物を男に背負わせて来ました。背が高くて、丈夫そうで、丸髷《まるまげ》を綺麗《きれい》に結っていました。それがはつでした。顔の道具も大きく、がっしりしていて、頼もし気に見えます。夜具蒲団に大きな行李《こうり》、それに風呂敷包《ふろしきづつみ》も二つ三つという荷で、それを下した時は、「お嫁入のようだね」といったことでした。
はつは早速そこらを片附け始めて、自分の家へでも帰ったかのように働きます。小さな女の子をかわいがるものですから、すっかりなついて負われます。
「まあ、負んぶなどして」といいますと、「大木へ蝉《せみ》が止ったようでしょう」といって揺すぶるので、「大木へ蝉、大木へ蝉」といっては取りつきます。
このはつは大宮《おおみや》在の土地でも相当な農家の娘で、町の大きな染物屋に嫁《とつ》いで、女の子二人の母親となって、もともと気性の勝った女だったものですから、一人で切廻していました。けれども亭主は善良というだけの人で、継母が一人あり、手不足だというので、継母の縁続きの少女を雇ってから、家の中にいろいろ面白くないことが起り、はつも家出をしようと思立ちました。けれども心を惹《ひ》かれるのは子供です。それも遅生れの末の子が心配になるのでした。それに引かれて一日延ばしに日を送っていましたところ、或日の夕暮に食事の支度も出来て、糠漬《ぬかづけ》を出そうと手を入れた時に、亭主は新漬がいいといい、継母は古漬がいいといういさかいが始まりました。
ああいやだ、いやだ。こんな処にいつまでもいられるものかと思ったはつは、柄杓《ひしゃく》の水を手にかけて、腰の手拭《てぬぐい》でよくも拭《ふ》かずに、もう前から小風呂敷に手廻りの物を包んで置いたのを取るなり、薄暗い勝手口から出ようとしました。
「暗くなるのに、まだランプを附けないのか」という亭主の声がします。
「お母さん、お母さん」と、妹の方の子の呼ぶ声もするのを後に、はつは駈け出してしまいました。それで今でも糠漬の匂《におい》を嗅《か》ぐと、子供の顔を思出すといいます。
小学校しか出ないでしょうに、利口な女で、裁縫もしますし、洗濯洗張物《せんたくあらいはりもの》などについては、商売がら私の方で教えられることが多いのです。勝手の仕事の暇々には、庭の草取などもしてくれるので、主人も喜びますし、母はまた自分が昔畑仕事をした時のことなどを口にして、話相手にするのでした。
置いて来た子の年頃だといって、妹の方の子をかわいがってくれましたが、その子は髪が濃くて、夏向は頭の地まで汗に濡《ぬ》れるのです。その子が或時女中部屋で長く遊んでいると思ったら、「奥様御覧下さい。これで汗もも出来ますまい」といいます。見ると頭をすっかり剃上《そりあ》げて、上はお河童《かっぱ》にしてあります。「私の子をいつもこうしましたから」というのでした。青々とした剃り跡には天瓜粉《てんかふん》が一杯附けてあるので、子供は珍しそうに頭を撫《な》でていました。
夜ほの暗いランプの光に、小さな鏡を立てて髪を結います。「暗いでしょう、昼結ったら」といいますと、「昼は昼の御用がございますから」というのでした。「そんな小さな鏡で」といいますと、「何、鼻の頭だけ映ればいいのです。あとは勘ですから。」そういって、いつもさっぱりと取上げていました。
「奥様のように、髪に手入れをなさらないではいけません」と、私の頭の雲脂《ふけ》を落したり、梳《す》いたりしてくれた上に、「少しお頭を拝借させて下さい」と、水油を少し附けて、丸髷《まるまげ》に結ってくれました。今まで私は島田《しまだ》にも丸髷にも結ったことがなかったのです。入用の品も、いつの間にか買揃《かいそろ》えて置いたと見えます。自信があるのでしょう、「御隠居様、御覧下さいまし」といいます。母も、「まあ、見違えたよ。日本人はこの方がいいねえ」といわれます。子供たちが珍しがって騒ぎます。私もまだ若かったものですから、気紛《きまぐ》れに近くの写真屋へ行って、子供と一緒に写真を撮りましたが、その写真はいつの間にかなくなりました。
はつはこんなに行届いていて、誰にでも好かれるのでしたが、二年ほどで暇を取りたいといい出しました。といいますのは、もともとどうかして自立したいと思っていましたところへ、目の前によいお手本が現れたからでした。
話が別のことに移りますが、はつより先に、主人の郷里長岡の旧藩士で小林という家のちか子という十五になる子が、子守《こもり》にどうかとのことで来ていたのでした。不仕合《ふしあわせ》な境涯の子でしたが、無邪気な、素朴な様子をしていて、少し馴れましたら、小さな女の子を背負い、男の子の手を引いて、その頃流行していた「壮士の歌」というのを歌いながら、広い庭をあちこち歩きます。その歌というのが、「東洋に、屹然《きつぜん》立ったる日本の国に、昔嘉永の頃と聞く、相州浦賀《そうしゅううらが》にアメリカの、軍艦数隻寄せ来り、勝手気ままの条約を、取結んだるその時に」云々というのです。子供は物覚《ものおぼえ》が早いものですから、上手にそれを真似《まね》します。
昼間はそうして子供をよく遊ばせますが、夜になると、「私に読める本があったら見せて下さいまし」といって、手紙の本などを見ては写しています。もともと学校の出来もよくて、知識慾が盛んで、もっと勉強したがっているのでした。
それで二年ばかりして、大学で看護婦の募集をすることがありました時に、主人が試験を受けさせましたら合格しましたので、本人も喜んでそちらに勤め、暇があれば何かと勉強しています。休日には尋ねて来て、先生方の講義の様子とか、身分のある人が入院した時に附添った時のこととか、そんな話をします。だんだんに世馴れて、怜悧《れいり》になるようです。
その様子を見聞きして、はつは羨《うらやま》しくなったのです。それで暇を取りましたが、看護婦にはなれないものですから、雑仕婦《ぞうしふ》になって、あちこち転々している由を人伝《ひとづ》てに聞いているだけで何年か立ちました。そうしたら或夏の夜に、葡萄《ぶどう》を沢山持って、尋ねて来てくれました。
「家でなったのですが、割合においしいので」といいます。
「では今田舎にいるの」と聞きますと、「いいえ、本郷《ほんごう》です」というのです。
はつが落附いて話すのを聴《き》きましたら、雑仕婦をしてあちこちへ出掛ける内に、看護婦まがいのことをするようになり、人に重宝がられて、忙《せわ》しく暮している内に貯金も出来ました。ところが今少しというところで、附添った患者の病気が感染して、一時は重症にも陥りました。ようやく快方に向いましたものの衰弱が甚しく、貯金も尽きはててしまい、どうにも困り切った時に、或親切な人が金を出して下すったので、それから百日ほど静養して、健康に復しました。
その親切な人というのは九州の生れで、相当の暮しをしていたのですが、あまりに正直過ぎて事業にも失敗し、その上に目を患って、端《はた》から見ては分らないのに、はっきり物が見えないのです。そんなですから人の不幸にも同情する気持が強くて、惜し気もなく金を出して下すったのでした。その人は本郷の済生学舎の近くに的場《まとば》を遣っていられました。
全くの命拾いをしたはつが、どうお礼をしたものかと、人に相談しましたら、「あの人は身寄《みより》もなくて寂しく暮していられるのだから、あなたが一緒になって、世話をして上げたらどうか」とのことでした。それで勧められるままに、はつは結婚したのでした。
その主人と一緒に的場をやっているのですが、的場には天井がないので、空地《あきち》に葡萄が這《は》わせてあります。持って来てくれたのはその葡萄なのでした。
「的場へは済生学舎の書生さんたちが来ます。私がこんな恰幅《かっぷく》をしているものですから、雲岳女史などいって親《したし》んでくれます」などといって、はつは嬉《うれ》しそうにしていました。雲岳女史は村井弦斎《むらいげんさい》が書いた新聞小説の中に出て来る大兵《だいひょう》な女傑です。
客のいない日に、主人が慰みに大弓を引きますと、面白いように当ります。目は見えなくても長年の勘で当るのです。不断は前屈《まえかが》みになっていますのに、弓を取って肘《ひじ》を張った姿はしゃんとして、全く見違えるようです。
はつはそんな話をして、「長々お邪魔をしました」といって帰りかけます。「田舎では」と私が聞きましたら、「それをお話するのでした」と、また腰を据えて、実家の父の病気見舞に行った話をしました。看護婦の姿で、駅から車に乗って、遠廻りでも町を通って、染物屋の前を過ぎましたら、隣の家で驚いていたそうで、父も大変喜んでくれたというのです。
「また伺います。」そういって立上って、また思出したように、「ちか子さんはお元気でしょうか」と聞きます。
ちか子は産婆の方の免状も取って、アメリカへ渡って都合よくしているのでした。その話をしますと、「結構ですね。若いに似合わずしっかりした人でしたから。おついでに宜しくおっしゃって下さいまし」といって、帰って行きました。
それからはつは度々尋ねて来るようになりました。けれども折角新しい生涯に入ったのに、運が悪いらしく、一、二度|引越《ひっこし》もしましたが、その度に粗末な家になって行きます。初音町《はつねちょう》辺の裏にいた時に尋ねて行きましたら、ずいぶんひどい家にいました。それでもはつが住めば綺麗になるので、よく片附いた部屋で、茶を入れて出してくれました。
その頃でしたか、古い袴《はかま》を持って来たことがありました。「洗張《あらいはり》でもするの」と聞きましたら、「これは主人のために探して来ました」といいます。或神社のお札配りの仕事を見附けましたが、お社《やしろ》の仕事だから袴をはくのがよかろうと思ったのです。「脚はかなり丈夫ですから」とのことでした。しかしこの仕事も続きませんかった。何しろ目が悪いのですから、標札を読むのに時間がかかるので、一月ほどで止《や》めて
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